歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

外様小藩政治経済史(連載第10回)

三 狭山藩の場合

 

(1)立藩経緯
 狭山藩は、豊臣秀吉に討たれるまで関東地方の実質的な支配者であった後北条氏(以下では、単に北条氏という)の子孫によって河内に立藩された小藩である。西国出身ながら関東地方を長く拠点としていた戦国大名北条氏が関西に立藩した経緯はやや複雑である。
 北条氏は全国制覇を狙う秀吉によるいわゆる小田原征伐に敗れ、戦国大名としての覇権を喪失していたが、一族滅亡したわけではなく、時の当主北条氏政切腹したが、氏政の子・氏直や同母弟の氏規らは高野山蟄居という寛大な処分を受けていた。
 氏直と氏規は後に秀吉から赦免され、それぞれ河内を中心に小さな所領を与えられて豊臣大名としての復権を認められることになった。秀吉としては「名門」北条氏を完全に抹殺せず、目の届きやすい関西に配置換えしたうえで、温存しておく算段だったのだろう。
 しかし、氏直は間もなく実子のないまま夭折した。一方、氏規も慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの直前に死去し、嫡子の氏盛が後を継いだ。この氏盛は従兄に当たる氏直の養子にもなっており、氏直死去に際して氏直の下野4000石の所領を受け継いでいたところ、父の死去により河内7000石の所領も継承したのである。
 その直後に勃発した関ヶ原の戦いでは東軍に付いたため、氏盛は徳川家康から改めて河内と下野の計1万1千石を安堵され、外様大名に列したのである。関西と関東に所領が飛地で分散する異例の形であったが、本拠は河内側に置かれた。
 当初は北条氏大坂屋敷のあった船場に臨時政庁を置いたが、氏盛が慶長13年(1608年)に夭折した後、わずか8歳で後を継いだ嫡子・氏信の時、狭山池東畔で陣屋の建設に着手した。その氏信もまた24歳で夭折、本丸に相当する上屋敷が完成したのは、3代目氏宗の時であった。
 こうして、河内狭山に拠点を持ったため、狭山藩と呼ばれるようになるが、狭山所領単独では旗本級の7000石にすぎず、遠い飛地の関東側所領(後に常陸に移封)と合わせてようやく大名最低基準の1万石をクリアするというまさに小藩であった。