歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

外様小藩政治経済史(連載第12回)

三 狭山藩の場合

 

(3)社会動向
 狭山藩は、戦国期に小田原を拠点に関東一円を広域支配し、豊臣氏に滅ぼされていなければ天下人となっていたかもしれなかった北条氏が、恭順を誓った徳川幕府の「名門」保存政策の恩恵を受け、縁のない畿内の河内地方に小大名として封じられたという経緯を持つだけに、その権力基盤は弱体であった。
 実際、一度は無嗣改易の危機にもさらされている。すなわち、3代藩主北条氏宗は何らかの理由で(病弱説あり)将軍に御目見することがなく、幕府から正式に認証されない無位無官という非公式な地位にあったうえ、嫡男もないまま従弟の氏治に譲位して隠居したため、幕閣の異議により家督相続の許可が受けられなかったのである。
 幸い、この時は「下馬将軍」の異名を取った実力者の大老酒井忠清への嘆願運動が実り、氏治に改めて1万石で立藩し直させるという異例の措置が取られ、存続が認められたのだった。そのため、氏治以後の狭山藩は、実質上「第二次狭山藩」とも言える。
 そうした特殊な経緯からか、氏治は幕府への忠勤に励み、要職を歴任した後、5代将軍綱吉に近侍する御側衆にも抜擢されている。この氏治を養子として継いだ5代藩主が、歴代藩主中最も有能で中興の祖と目された氏朝であった。狭山藩にとっては、氏治・氏朝父子時代が最盛期であり、最も安定していた。
 ところで、狭山藩はかつて小田原を拠点とした「名門」だけに、家臣団は小田原以来の旧臣譜代(小田原衆)と狭山で新たに雇い入れた家臣とに二分されていた。当然にも、勢力としては譜代が上回っていた。かれらは氏朝を継いだ6代氏貞の頃から幕政を専横するようになったが、このことが氏貞を若年で継いだ7代氏彦[うじよし]の時に藩内騒動として表面化する。
 すなわち、小田原衆の専横と腐敗に不満を持ち、改革を要求する反小田原衆の一派が決起し、当時の家老の暗殺を狙ったが、失敗し、反小田原一派が返り討たれた一件である。この狭山騒動は短期で鎮圧され、幕府の介入を受けずに済んだが、結果として藩政改革は失敗した。
 続く8代氏昉[うじあきら]の代になると、今度は領民の蠕動が起こり、百姓一揆や打ちこわしが相次いだことから、軍用方を設置し、軍資金の積み立てるなど、軍備強化の強権策に出た。こうした軍費増大に加え、彼の代には、陣屋焼失や天明大飢饉など凶事が続く不運もあり、財政難が深刻化する。そうした不穏な情勢下、氏昉は嫡男の氏喬 [うじたか]に譲位して隠居した。
 氏喬の治世は幕末へ向けての転換期に当たり、外国船来航に備えた海防や大塩平八郎の乱への鎮定出動などの軍役動員が相次いだ。先代の軍備強化はタイムリーだった反面、財政難には歯止めがかからず、窮余策として実施した上米に反発する家臣団の突き上げで氏喬は譲位に追い込まれた。家臣団による事実上のクーデターであった。
 氏喬には嫡男がおらず、美濃大垣藩主戸田氏の子息を婿養子として迎えたので、北条宗家の男系はいったん途絶えることとなった。その氏久は新たに農民を兵士に徴用する農兵という戦国期に逆行するような制度を導入したが、単純な戦時動員ではなく、農兵には苗字帯刀を許し、準士分として給与も支給するという点で財政難に拍車をかける制度であった。
 この新制を導入した三年後の嘉永五年(1852年)、まだ30代ながら氏久はすでに病床にあったと見られるが、彼の嫡子は早世していたため、死の直前に先代氏喬の甥に当たる氏燕[うじよし]を養子として家督を譲った。これにより、傍系ながら藩主家が再び北条氏に返されることになった。