歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

外様小藩政治経済史(連載第14回)

四 福江藩の場合

 

(1)立藩経緯
 福江藩は、五島列島全域を支配地とする[おそらく]唯一の離島藩である。藩主家は、鎌倉時代頃より一貫して五島列島の有力者であった五島氏が立藩から明治維新後の廃藩まで固定されたという点で、完全に土着固定型の藩であった。
 五島氏は旧姓宇久氏ともいい、平清盛異母弟の家盛が壇ノ浦の戦い後に五島列島宇久島に落ち延び、宇久氏の祖先となったと伝えられるが、実在の家盛は壇ノ浦より40年近くも前の久安5年(1149年)に夭折しているので、家盛祖先説は伝説の域を出ない。
 他に、清和源氏系武田氏を祖とするという平氏説とは矛盾する説もあり、結局のところ、宇久氏の起源は、多くの近世外様大名と同様に、不詳と言うほかない。確かなのは、宇久氏は倭寇の中心勢力と目された松浦党水軍に属する一派であり、列島北端の宇久島の島主から身を起こして次第に五島列島全域を支配下に収めるようになったことである。
 戦国時代になると、宇久氏第20代当主宇久純玄[すみはる]が豊臣秀吉の九州平定に協力し、五島列島1万2千石余りを安堵されたことで、五島列島の大名として確定した。宇久氏を五島氏に改姓したのも、純玄の代からである。
 ただ、五島氏はこの時代の多くの周辺九州大名と同様、キリスト教を信奉するいわゆるキリシタン大名であったことから、一族間でも宗派をめぐる対立が起きる中、純玄は自身洗礼名を持つ身でありながら、反キリスト教に傾く秀吉との関係を重視してか、キリスト教排斥策を採った。
 しかし、純玄は文禄の朝鮮出兵に参陣した際、陣中で疱瘡にかかり、夭折してしまう。彼には子がなかったため、後継問題が急浮上したが、五島家と懇意のキリシタン大名小西行長が仲介し、純玄叔父の玄雅[はるまさ]が、従兄弟の子・盛利を養子とするという複雑な条件で後継者となる異例の解決がなされた。
 玄雅はキリシタンであったが、朝鮮出兵への五島氏の協力ぶりを評価した秀吉から豊臣姓を下賜されるほどの豊臣忠臣であった。しかし、関ケ原の戦いでは中立を保ち、戦後に加藤清正らの説得で棄教したうえ、徳川家康から改めて1万5千石を安堵する朱印状を受け、初代福江藩主に納まったのであった。
 こうして、五島氏はキリスト教問題をめぐる時代の波にのまれながらも、数百年にわたる支配地・五島列島を守り抜き、近世大名としても一度も改易されず明治維新を迎えたため、福江藩は支配に関しては極めて安定した藩となった。