歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

関東通史―中心⇔辺境(11)

十二 江戸開府まで

 後北条氏が関東を支配した時代は、ほぼ織豊政権の時代に相当する。この時代の特徴は幕府が存在しなかったことである。織豊両氏ともに、室町幕府の滅亡以来、権威を失っていた征夷大将軍の地位をあえて求めず、軍事力を背景に実質的な最高実力者として統治したのであった。
 そのため、この時期の日本の首都の位置はかなり曖昧であった。確かなことは織豊両氏ともに本貫は東海地方にあり、少なくとも関東を本拠に統治しようとする構想はなかったことである。中でも豊臣秀吉は関白に任官し、朝廷の政治機構に入り込む形で統治したため、大坂と京都を往来するような形で畿内を本拠にしていた。
 一方、後北条氏小田原城を本拠に足利氏系古河公方の支配権を乗っ取り、関東支配を着実に拡大していくが、織田信長や新興の徳川家康にも対抗するだけの力はなく、二度にわたり同盟を結ぶも決裂した甲斐武田氏対策からも両者と結んで織田・徳川連合軍の甲州征伐にも協力している。
 とはいえ、信長横死の時点での後北条氏の版図は、本拠の相模を中心に西は伊豆から駿河の一部まで、東は武蔵、下総、上総北部から、上野、下野や常陸の一部にまで及ぶ総計250万石近い領域に及び、まさに関東の支配者であった。
 このまま順調に発展すれば、関東を基盤にして全国制覇もあり得る勢いであったが、西には織田氏を継いだ豊臣氏の強力な支配体制が形成されていた。後北条氏もさしあたり秀吉には家格維持と領地安堵を条件に表向き恭順の意思を示したが、時の当主・北条氏政の本心は違っていたようである。
 一方、関東を含む全国制覇を狙う秀吉も、後北条氏の関東支配をすんなり容認するつもりであったとは考え難く、両者の武力衝突は予定されていたものであった。
 1590年の有名な小田原征伐は通常、勝者の秀吉側が掲げた惣無事令違反という大義名分に立って「征伐」と呼ばれるが、実際のところは、「征服」と呼ぶにふさわしいものであった。その詳細な経緯にはなお未解明な部分も残されているが、秀吉が求めた氏政・氏直父子の上洛拒否(ないし引き延ばし)を反逆と決めつけた秀吉が軍を動員して小田原に攻め込み、後北条氏を降伏させたものであった。
 結局、氏政は切腹、氏直は助命のうえ高野山へ追放となり、後北条氏の関東支配はあっけなく終焉した。氏直は後に赦免され、一万石の小大名に封じられるも、間もなく死去した。後北条氏の領地は徳川家康に与えられ、小田原城にも徳川腹心の大久保氏が入城した。これにより、徳川氏の関東支配の基盤が築かれる。
 秀吉が朝鮮侵略の最中に道半ばで死去した後、後継者を決する関ヶ原の戦いを徳川勢が制して、江戸を本拠に幕府を開府すると、江戸が新たな日本の首都となり、ひいては江戸を中心とする関東が日本の政治経済上の中心地としての地位を鎌倉幕府滅亡以来およそ300年ぶりに回復するのである。

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