六 モンゴル民族の覇権
(2)パクス・モンゴリカ
中国大陸を征服したモンゴル族が樹立した元朝は、それまでの中原の制覇を目指した歴代王朝とは異なり、東西に及ぶ遠征活動を通じて、単なる中国王朝にとどまらないユーラシア大陸横断的な、言わばユーラシア帝国であり、歴史上も今日まで唯一無二の大陸型帝国であった。
最盛期の帝国は中国を本拠に、西はロシア、東欧、イラン、トルコ、イラク、シリア、南はアフガニスタン、チベット、ミャンマー、東は朝鮮にまで広がり、その領域面積は約3300万平方キロメートル(地球上の陸地面積の17パーセント)、域内人口は1億人を超えていた。
このような元朝‐ユーラシア帝国の成立は、それまでの中国史の流れをも大きく変えた。元朝以前の中国史は黄河流域を中核とするいわゆる中原の覇権をめぐる椅子取りゲームのような堂々巡りの歴史であったが、元朝の成立以後は中原を超え、まさにユーラシアを視野に収めた拡張主義的な歴史に変わっていくからである。
元朝‐ユーラシア帝国の時代は必ずしも長くはなく、おおむね13世紀から14世紀の100年ほどであるが、この間は帝国の軍事的覇権と自由貿易主義の下にユーラシア大陸が相対的な平和と繁栄を保ったことから、ローマ帝国最盛期の状況パクス・ロマーナに準じて、パクス・モンゴリカとも称される。
ただ、パクス・モンゴリカについて詳論することは本連載の「中国史」という枠組みを外れるので、ここでは割愛し、以下ではモンゴル帝国の強大な軍事力をもってしても征服できなかった諸国―言わば、帝国の限界線―について概観しておく。
まずはエジプトである。モンゴルは1253年以降、西アジア遠征軍を組織し、1258年にはアッバース朝の首都バクダッドを落とし、シリアも攻略、キリスト教徒連合軍と連携してエジプトにも進撃する勢いであったが、1260年、これを今日のイスラエル領内アイン・ジャールートで阻止したのが当時エジプトを支配していたマムルーク朝であった。もしここでマムルーク朝が敗北していれば、モンゴル帝国は北アフリカにまで膨張していたことになったはずであった。
こうしてモンゴル帝国を西端で阻止したのがマムルーク朝だったとすれば、東端で阻止したのが日本の鎌倉幕府であった。日本史上では元寇として知られる日本侵攻は、すでに朝鮮の高麗王国を支配下に編入していたモンゴル帝国にとっては、帝国を東へ拡張する極東征服作戦の一環であった。
しかし、周知のように、1274年、1281年の二度にわたる作戦はいずれも失敗に終わった。当時の皇帝クビライ・カーンは1283年に三度目の日本遠征を計画したが、江南地方の政情不安やベトナム情勢の悪化などから断念した。これにより、帝国の東への膨張は朝鮮半島止まりとなった。
一方、ユーラシア大陸中央部のインドに関しても、モンゴルはチンギス・カンの時代から1320年代に至るまで1世紀以上にわたり、たびたび侵攻し、北部辺境地域を支配下に収めた。さらに進んでデリーを攻略しようとするも、当時デリーを支配していたイスラーム系デリー・スルターン朝がこれを阻止した。ただし、16世紀になって、チンギス・カンの血を引くバーブルがムガル(=モンゴル)帝国を建てたことで、モンゴルのインド支配の野望はより広範な形で実現されたとも言える。
中間の東南アジア大陸部では、モンゴルは1256年、1285年、1287年の三度にわたりベトナムに侵攻したが、南宋攻撃の足掛かりにすぎなかった1256年は別として、残りの二度の遠征はいずれも当時ベトナムを支配していた大越国陳朝に阻止された。
また、モンゴルは東南アジア島嶼部にも目を向け、1293年にジャワ島に侵攻したが、この時はジャワの強国シンガサリ王国の内紛に巻き込まれ、最後の王クルタナガラの女婿で、当初モンゴルの協力者であったウィジャヤの裏切りにあって敗北した。ウィジャヤはこれを機にヒンドゥー系マジャパヒト王国を建国し、繁栄することになる。