十九 お美代の方(1797年‐1872年)
子沢山で知られる第11代将軍・徳川家斉には正室・広大院のほかに15人の側室がいたとされ、次代の将軍・家慶の生母も側室・お楽の方(香琳院)であったが、詳細な事績が記録されている側室となると、お美代の方(専行院)くらいである。
お美代の方の出自については確かな記録がないが、旗本・中野清茂(碩翁)の女中から清茂の養女となって大奥に上がったことはわかっている。碩翁自身、知行なし300俵の徒頭を父に持つ出自であったが、家斉の幼少期からの遊び相手となって出世し、家斉の最側近となり、500石旗本の新番頭まで昇進した家斉時代の事実上の最高実力者であった。
そうしたことから、自身の女中を大奥に差し出し、あわよくば将軍候補となり得る男子を産ませて自身の発言力を一層高める狙いがあったのかもしれない。いずれにせよ、大奥入りしたお美代の方は家斉の側室として最も寵愛される存在となる。ただ、男子は産めず、娘を三人産み、一人は夭折したものの、成長した二人はそれぞれ加賀前田家と広島浅野家に正室として嫁いだ。
そこで、お美代の方は前田家に嫁いだ溶姫が産んだ前田慶寧[よしやす]を次代将軍・家慶の継嗣とすることを画策し、家斉の遺言書を偽造したが、この陰謀は正室・広大院や老中・水野忠邦によって阻止されたとする説もある。しかし、確証はない。ただ、そうした風説が存在するほど、彼女は大奥で実力を持っていたということであろう。
お美代の方を有名にしたのは、実父説も有力な日蓮宗僧侶・日啓(日純)が住職を務める智泉院を家斉に請託して将軍家御祈祷所としたほか、参詣を口実に大奥女中らを智泉院に出向かせ、同寺で若い美僧に接待を繰り返させていたという醜聞によってである。
これが醜聞となったのは、家斉の隠居後、家慶時代に老中首座となった水野忠邦が天保の改革の一環として断行した綱紀粛正で、智泉院がターゲットとなり、日啓は捕縛され、遠島に処されたからである。また、碩翁も登城禁止、加増地没収、別邸取り壊しという厳しい処分を受けた。この処分は智泉院事件に連座したものか、碩翁自身が権勢を背景に多額の収賄を行っていたとされたためか、あるいはその双方を理由とするものかもしれない。
寺院をあたかも現代のホストクラブ化していた智泉院事件は、捜査の行方次第ではかつての江島生島事件を超える大奥醜聞に発展する可能性もあったところ、大奥関係者は大量処罰されず、ただお美代の方が押込処分となったとされるのみである。
言わば役者との「合コン」事案に過ぎなかった江島生島事件は大奥内外の権力闘争が絡んで過大にフレームアップされた嫌いがあったが、性的接待の疑惑もあった智泉院事件はより深刻であっただけに、水野としては醜聞が拡大し、幕府の威信が失墜することを恐れ、むしろ捜査の縮小を望んだのかもしれない。
家斉没後、落飾して専行院を号したお美代の方は当時としては長生し、倒幕後、明治五年(1872年)まで生存した。側室が落飾すれば原則江戸城を出ることが慣例ではあったが、お美代の方は文久年間(1860年代)まで江戸城に残留していたとする証言もある。
最後は講安寺という現文京区内の小さな寺院に隠棲し、死去している。将軍家菩提寺ではなく、娘の縁で前田家の墓地に埋葬されているのは、かつての醜聞が没後まで影響したのかもしれない。ちなみに、孫の慶寧は最後の加賀藩主にして後の近衛文麿首相の外祖父でもあるため、近衛家には専行院の血脈が継承されている。