歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

もう一つの中国史(連載第22回)

七 中世の激動と周辺民族の動静


(1)チワン族の自立と帰順
 宋及び宋が金の侵攻により南遷した南宋の時代からモンゴル系の元を経て漢民族が再び支配権を取り戻す明初期までの中国中世は激動の時代であったが、この時代、周辺民族もまた様々な動きを見せている。
 今日中国政府公認少数民族の中で人口上最多のチワン族はタイ人に近い民族集団として、かつては南部の百越と呼ばれた多様な民族集団の中から分岐したと見られる。
 チワン族はベトナムではヌン族と呼ばれ、今日の広西チワン族自治区を中心とする中国南部とベトナムにまたがる地域を拠点に、唐の時代には異種の異民族懐柔策であった羈縻政策により、チワン族も唐支配下で冊封され、漢化が進んだが、独自性を喪失することはなかった。チワン族が自立化を目指したのは、北宋の時代である。
 最初は、1038年にチワン族首長ノン・クアンフー(儂全福)が起こした反乱で、彼は公源州(現広西チワン族自治区百色市)で長生国を建て昭聖皇帝と称したが、間もなく北宋の討伐を受け、殺害された。
 しかし、1041年から1053年にかけて、父クアンフー継いだノン・ジガオ(儂智高)はたびたび武装蜂起し、自立を目指した。チワン族民族英雄として記憶されるノン・ジガオの反乱と呼ばれる一連の蜂起事件である。
 ノン・ジガオは三度反乱を起こしているが、最初は1041年、わずか17歳にして独立宣言を発し、大理国の建国を宣言した。しかし、この時は直ちにベトナム李朝に捕らわれたが、1048年に釈放されると、再び決起し、南天国の建国を宣言した。
 これに対して李朝が本格的な軍事攻撃を開始すると、ノン・ジガオは北宋領内に侵入し、1052年には大南国皇帝(仁惠皇帝)への即位宣言を行った。大南は今日の広西チワン族自治州の州都でもある南寧を占領し、広州を包囲するなど、北宋軍をしばしば撃破して広東を制圧する勢いを示したが、仁宗皇帝は1053年に名将・狄青を派遣してようやく征討に成功、ノン・ジガオは雲南方面へ逃亡し、行方知れずとなった。
 こうした一連のノン父子による一連の蜂起は、北宋が唐時代の比較的寛大だった羈縻政策を変更して、統制を強めたことへの反発があったと見られる。しかし、ノン・ジガオの反乱の後、宋王朝はチワン族エリート層を官僚機構に編入、元反乱軍兵士を宗軍に編入するなど、チワン族の包摂政策を進めた。
 元の時代を経て、明代になると、土司制度の下、強力なチワン氏族岑氏が土司として束ねつつ、勇猛なチワン族兵士は狼兵と呼ばれる傭兵としても活躍、16世紀には女将軍・瓦氏夫人が率いて倭寇鎮圧にも出動している。