Ⅲ 近世の二人の女性天皇
2:後桜町天皇(1740年‐1813年)
(ア)登位の経緯
父・桜町天皇の譲位を受けて即位した異母弟・桃園天皇が22歳で夭折したことを受け、桃園の第一皇子・英仁親王が5歳と幼少であったことから、英仁の将来的な即位を前提に、有力五摂家の協議を経て、中継ぎ天皇として異母姉・智子[としこ]内親王が即位した。
(イ)系譜
桜町天皇の第二皇女にして、母は関白左大臣二条吉忠二女の二条舎子[いえこ]。なお、舎子の生母は加賀藩主前田綱紀の娘・利子であったため、後桜町天皇は母方から大名前田氏の血も引く。
(ウ)治績
如上の経緯から、あくまでも英仁親王成長までの中継ぎであったこと、保守的な公家層からは内親王の即位は「稀代の珍事」などと評され、批判も強かったこと、幕府に諮らず五摂家協議のみで即位決定がなされたことなどから、天皇としての行為が制約され、宮中儀礼への出席を見合わせることも多く、特段の治績は見られない。むしろ、在位九年の明和七年(1771年)、予定どおり英仁親王(後桃園天皇)に譲位した後は、父と同じく夭折した後桃園の後継者として、傍流の閑院宮家から幼少にして擁立された光格天皇を上皇として輔導するなど、後見役としての事績を残した。また、天明七年(1787年)、飢饉に苦しむ京都を中心に近畿の民衆数万人が京都御所を囲み、千度参りする一種の民衆デモ(御所千度参り事件)に直面した際、後桜町上皇は3万個の和林檎を配布し、慰撫に努めた。さらに、光格天皇が幕府が定めた禁中並公家諸法度に反して実父の典仁親王に上皇の尊号を与えることを強行した事件(尊号一件)では、天皇を諭して撤回させるなど、朝幕関係の維持にも努めつつ、皇室の威信を高めた。
(エ)後世への影響
明正天皇以来、119年ぶりの女性天皇にして、現時点では最後の女性天皇としての位置付けを持つ。天皇時代よりも長かった上皇時代の事績により皇室の威信を高め、間接的ながら幕末の尊王思想にも一定の影響を及ぼしたと考えられるため、尊王の立場からは「国母」とも評される。
※備考
明正天皇以来、江戸時代でも119年ぶりとなった女帝誕生の経緯に関しては諸説あり、幼帝の即位によって、同じく幼少で即位した父の桜町天皇時代と同様に新たな側近衆が台頭し、摂関家と対立することを警戒したという説、英仁親王への直系継承を円滑にする上皇の存在が必要とされたからとする説、幼い英仁親王の養育に天皇即位後は母子別居することが慣例とされていた生母・一条富子の関与が要請されたからとする説などが出されている。五摂家の拙速な密室協議で即位が決まった経緯から見れば、第一の側近衆警戒説に分がありそうである。さらに付け加えれば、上皇時代の事績などから見ても、人格識見に優れていたことも考慮されたかもしれない。