Ⅲ 近世の二人の女性天皇
奈良時代の称徳天皇以来、800年以上にわたり、女性天皇は途絶え、武家支配に移行した鎌倉時代以降も復活することなく、女子の皇位継承を認めないことが事実上慣習法として確立したかに思われた。
しかし、江戸時代に入り、突如、この慣習法が破られ、17世紀に明正[めいしょう]天皇、18世紀に後桜町天皇という二人の女性天皇が出た。とはいえ、あくまでも例外であり、両女帝の登位の経緯は時の情勢(特に朝幕関係)を反映してそれぞれに異なっている。
1:明正天皇(1624年‐1696年)
(ア)登位の経緯
父の後水尾天皇が寛永六年(1629年)、急遽譲位したことを受け、即位した。皇位継承者と目されていた高仁[すけひと]親王が前年に夭折し、譲位時は他に皇子もおらず、当時最年長子だった興子内親王以外に皇位継承者がなかったことから、即位に至った。
(イ)系譜
母は2代将軍・徳川秀忠の娘で、当時は事実上の皇后に相当した中宮・徳川和子[まさこ]であり、家康の孫娘に当たる。結果として、徳川氏が皇室外戚となった。
(ウ)治績
即位時わずか5歳であり、父の後水尾天皇は30歳代で譲位したうえ、80歳代まで長寿を保ち、院政を敷いたため、父が存命中の寛永二十年(1643年)には自らも19歳で譲位した明正自身が在位中に実権を持つことはなかった。幕府も、女帝親政に否定的であったとされる。
(エ)後世への影響
称徳天皇以来、実に859年ぶりの女性天皇となり、慣習が破られた。しかも徳川氏の血を直接に引く初の天皇であったが、母の和子以後、徳川家から入内する女子が絶え、かつ和子が産んだ他の皇子もみな夭折したことから、明正が史上唯一の徳川外戚天皇として歴史に名を残すこととなった。しかし、あくまでも「末世奇代の例」として例外的即位とみなされたため、江戸時代でも明確な先例とはならず、江戸時代二人目の女性天皇(後桜町天皇)が即位したのは119年後である。
※備考
久方ぶりに女性天皇を誕生させる契機となった後水尾天皇退位の真の理由ついては不明な点が多い。ただ、後水尾時代は朝幕関係が過度に緊張状態にあり、とりわけ、後水尾が禁中並公家諸法度に違反して、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた件をめぐり、幕府がこれを厳しく追及し、法度違反の紫衣の没収、抵抗した高僧らの流罪を断行(紫衣事件)、幕府の法度は天皇の勅許に優先するという法原則を明示したことへの抗議を込めた退位とする説が有力である。とはいえ、上述のとおり、新帝となった明正天皇は徳川家の血を引いており、これにより徳川家は皇室外戚という高い地位を得たことも事実であり、幕府側が譲位を水面下で迫った可能性もなくはないだろう。もっとも、時の3代将軍・家光は同母妹でもある和子が産んだ明正の実弟で同じく徳川家の血を引く高仁親王の即位を従前から待望していたとされるが、上述のとおり、親王は夭折したため、実現しなかった。