歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

もう一つの中国史(連載第21回)

六 モンゴル民族の覇権

 

(3)元朝の撤退
 巨大帝国化した元朝は、全盛期を築いた世祖クビライ・カーンが1294年に没すると、斜陽化の道をたどる。元朝では明確な皇位継承制度が確立されておらず、後継争いが生じやすいことが致命的であった。
 クビライを継いだ末子のテムル(成宗)も長兄を飛び越えての即位となったが、彼の治世前半には、クビライ時代から中央アジアを拠点に元朝に反乱を起こしていたオゴデイの孫カイドゥを破り、反乱を平定に導く功績を上げた。しかし後半期になると、酒乱・淫乱から病床に伏せ、政務は皇后ブルガンの手に委ねられた。
 テムルが1307年に死去すると、ブルガン派と反ブルガン派の抗争が起き、反ブルガン派のクーデターにより、テムルの甥に当たるカイシャン(武宗)が即位する。しかし、彼は短命で死去し、弟のアユルバルワダ(仁宗)が継ぐ。
 アユルバルワダ時代は科挙の限定的復活や儒者の登用などが実行され、漢文化や漢制に傾斜した例外的な時期であったが、こうした漢化路線が定着することはなく、アユルバルワダを継いだ息子のシデバラ(英宗)が保守的なイェスン・テムル派に暗殺されると、終わりを告げた。
 これ以降は短命な皇帝が続き、政情不安と財政難が常態化する中、元朝の衰退は目に見えて進行していく。元朝最後の皇帝となるトゴン・テムル(恵宗)は13歳で即位し、元朝最長の35年の治世を保つが、皮肉なことに、その治世は元朝史上最も混乱に満ちたものであった。
 1351年以降、漢民族を主体とする元朝打倒運動として紅巾の乱が勃発する。1353年以降は自立傾向を見せる皇太子アユルシリダラとの対立・内紛により、中央政府が機能麻痺に陥った。
 こうした中、江南を基盤に実力をつけていた紅巾軍ゲリラ兵出身の朱元璋が率いる北伐軍が1368年、元朝軍を破り、首都の大都を制圧、明朝を樹立する。トゴン・テムルはアユルシリダラとともにモンゴル高原に敗走した。
 ただし、元は完全に滅亡したわけではなく、本拠であるモンゴル高原に撤退して存続していくが、これ以降、再び中国大陸の支配権を取り戻すことはなく、中国史上の国家としては終焉する。
 こうして、クビライ死後の元朝ではクビライ級の英主が現われることなく、混乱しながらクビライの死後70年余りも延命されたのが不思議なほどであった。元朝が前後の鮮卑系唐朝や、女真系清朝と比べても長続きしなかったのは、漢制を軽視した征服王朝の限界であったと言える。
 一方、強力な騎馬軍団に支えられた遊牧的な機動性を駆使し、歴史上初めてアジアとヨーロッパを一本につないたユーラシア帝国としてのモンゴルの実態は封建的な遊牧国家であり、チンギス・カンの子孫を長とする複数の分国(ウルス)の連合形態を脱することなく、最終的には各ウルスが自立化し、分解していった。