六 モンゴル民族の覇権
(1)元朝の独異性
クビライ・カーンの頃に最大化したモンゴル帝国は中央アジアを越え、ロシア方面にも拡張されていたから、最盛期のモンゴル帝国は本来中国史を超えたユーラシア史に属するが、ここでは行論上中国史上のモンゴル帝国に限局する。
中国史上のモンゴル帝国=元朝は、かつての遼以来の征服王朝の性格を持っており、実際、遼の二元統治システムを踏襲していたが、遼に比べても、モンゴル独自の制度・慣習を優先する傾向が強く、中国史上異彩を放つ存在である。
そうした点では、かつての鮮卑族が漢化政策を採用し、北魏・隋唐(隋唐を鮮卑系とみなした場合)の時代を通じて、律令制をはじめとする漢制を言わば漢族になり代わって大成させたこととは好対照であった。
実際、元朝下で律令制は停止され、より体系性に欠けた部族慣習法的なモンゴル法が施行されるようになり、伝統的な官吏登用法であった科挙も停止された。当然にもモンゴル貴族が要職を占め、漢族は下級官吏などに閉塞した。
法治は苦手とした元朝だが、広域統治には長けており、全国を省に分ける現代中国の広域地方行政の仕組みも「行中書省」と呼ばれた元朝の地方行政庁に由来している。元が残した広域統治の仕組みは、北京を首都とする政策とともに、その後、漢民族が支配権を奪回した後も広大な領土の統治に活用されていると言える。
元朝時代のもう一つの独異性は、地理的な開放性から国際性が増したことである。この点では唐の時代に比すべきものがあるが、元朝期の国際性は商業・文化面での国際化にとどまらず、人材登用にも及んだ点に特色がある。特に西アジアのイスラーム教徒の登用である。
財務に通じていた彼らは、特に財務官僚として重用された。最も著名な人物は、クビライ時代のアフマド・ファナーカティーである。彼とその一族は帝国の財務機構を掌握し、専横したことから、クビライの息子チンキム皇太子と対立し、暗殺されたほどであった。
これと対照的なのはサイイド・アジャッルで、彼とその一族は雲南をはじめとする地方行政・経済開発で功績を上げ、その子孫は雲南省に土着した。後の明代に大航海の立役者となった提督鄭和も、サイイドの末裔とされる。
今日では全国に拡散しているイスラーム系少数民族回族の祖先は、そのすべてではないにせよ、主として元の時代に移住してきた西アジアのイスラーム教徒が漢族と通婚し、形質的にも漢族と同化して形成されたものと考えられる。