Ⅳ 近代の皇后「陛下」たち
3:香淳皇后(1903年‐2000年)
(ア)立后の経緯
大正十三年(1924年)、大正天皇の健康問題からすでに摂政に就任していた皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の妃となり、同十五年(1926年)、昭和天皇の即位に伴い、皇后冊立。皇太子妃に内定後、当時の宮中・政界権力闘争をも背景として、母方に色覚異常の遺伝があるとされることを理由に元老・山縣有朋らが久邇宮家に婚約辞退を迫った「宮中某重大事件」が起きるが、久邇宮家側が事実上の女帝的な立場にあった貞明皇后に働きかけて、婚約を維持したとされる。
(イ)系譜
北朝系皇室の祖である伏見宮家の分家でもある久邇宮家の第2代当主・邦彦王[くによしおう]の長女。皇族出身の皇后としては、光格天皇の中宮(皇后)・欣子[よしこ]内親王(新清和院)以来、132年ぶりとなる。久邇宮邦彦王は明治維新後、陸軍士官学校を卒業し、皇族ながら職業軍人となった。母は最後の島津藩主・島津忠義の側室の娘・俔子[ちかこ]。
(ウ)事績
戦前と戦後をまたいで皇后の座にあった人生そのものが「事績」とも言えるが、その具体的な事績は戦前と戦後で大きく分かれる。戦前はとりわけ戦時下、単独公務を積極的に行い、戦争遂行に協力したことから「国母陛下」と通称されるなど、戦争政策の主役の一人であった。昭和十五年(1940年)の「紀元二千六百年記念行事」では、皇太子を除く四人の子とともに単独で二重橋前に現れ、皇后独自の存在感を示した。戦後は一転、民主主義下での象徴天皇制における皇后として、象徴化された天皇の各種行事や外遊への同伴者、言わば象徴的なファースト・レディのような役割に徹した。
(エ)後世への影響
戦前の神権天皇制と戦後の象徴天皇制における皇后の双方を経験した唯一の皇后として、とりわけ、戦後の象徴天皇制における皇后像の先例となった。
※備考
香淳皇后が130年以上ぶりに皇族から立后された経緯は不明であるが、実現しなかったとはいえ明治天皇が皇太子(後の大正天皇)の妃に皇族出身者を望んでいたことが遺訓とされたものであろうか。いずれにせよ、香淳皇后は皇族出自のゆえか、自身の長男である皇太子明仁親王(後の平成天皇、現上皇)と旧平民(財閥家)出自の正田美智子(現上皇后)との恋愛婚約には強く反対し、正田家側に右翼団体まで介して婚約辞退を迫ったと言われる。しかし結局、阻止できず、成婚した後も美智子妃を冷遇し、嫁姑の対立関係を生じたともされる。ともあれ、平成時代以降は、一転して皇后が旧華族でさえなく、恋愛成婚により旧平民・旧地方士族家系から出る例が現皇后まで二代続いており、ある意味では皇室の「民主化」も進んだと言える。