歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

クルド人の軌跡(連載第6回)

二 クルド人の全盛

アイユーブ朝の短い天下 
 サラーフッディーンが創始したアイユーブ朝は、彼の死後もエジプトを基盤に版図を拡大し、シリア、パレスティナ、イエメン西部にもまたがる超域的な領域国家に成長した。これはクルド人が世界史の中で主役を演じたほぼ唯一の機会であったが、それが故地から遠く離れた場所においてであったのも皮肉である。
 しかし、アイユーブ朝は長続きしなかった。その要因として、サラーフッディーンの死後間もなく王朝は彼の兄弟ら親族によって簒奪、分割されたことが大きい。その点では、サラーフッディーン後継者と目されていた長男アル‐アフダルが酒色に溺れる統治不適格者であったことは問題であった。
 彼に代わって第2代スルターンとなった次男のアル‐アズィーズ・ウスマンは民衆にも評判の良い公正な統治者となったが、財政難に苦しんだうえに落馬事故により在位5年で不慮の死を遂げた。その跡を幼い息子アル‐マンスールムハンマドが継ぐが、在位2年で野心的な叔父アル‐アーディルによって簒奪された。
 こうしてサラーフッディーン直系は早くも絶え、本拠のエジプト及び第二の拠点とも言えるシリアのダマスカスでは以後、アル‐アーディルの子孫が権力を世襲していく。また、イエメンもサラーフッディーンの弟とその子孫が掌握する。最終的に7つに拡大した地方政権は次第に分権性を増し、半独立状態となっていった。
 もう一つの要因は、奴隷傭兵マムルークの増長である。アイユーブ朝クルド系と言ってもクルド人はアイユーブ家と近衛の戦士らのみであり、領民の大半を占めるアラブ系先住民を統治し、かつしばしばアイユーブ家に不忠であったクルド人を統制するためにも傭兵の存在が不可欠であった。
 そのために、王朝はテュルク系の奴隷兵士マムルークを雇い入れた。これはバグダードアッバース朝の軍事政策を踏襲したものと言える。その結果、アッバース朝で起きたのと同じことが起きた。すなわち、マムルークの増長である。
 とりわけ内憂外患に見舞われたエジプト・アイユーブ家の第7代アッ‐サーリフはマムルークを大量に購入し、ナイル河中洲に専用の兵舎を建設したため、これを基盤にバフリー(大河:ナイルの別称)・マムルークと呼ばれる軍団が形成された。
 バフリー・マムルークは間もなく軍閥として台頭、1249年の第7回十字軍を撃退し、総帥のフランス国王ルイ9世を捕虜にした成果をもとにクーデターを起こし、すでに弱体化していたアイユーブ朝を打倒したのであった。その後に成立したマムルーク朝支配下で、アイユーブ系地方政権は付庸国として命脈を保つのみとなった。
 こうしてアイユーブ朝は100年は続かず事実上滅亡したが、その支配下で首府エジプトはファーティマ前王朝時代に染まっていたシーア派からスンナ派への復帰を遂げ、神学校(マドラサ)を通じたスンナ派教学と学芸の振興も見られた。こうした宗教的・知的遺産とともに、アイユーブ朝治下で開発が進んだ灌漑農業もマムルーク朝を経て永続的に継承されていった。
 アイユーブ朝の滅亡後、クルド人が再び歴史の主役となることはなかったが、16世紀にイランに現れ大国となるシーア派サファヴィー朝は王家遠祖がクルド人と見られている。しかし、この王朝はペルシャ化しており、おそらく王家もクルド系の自意識を持っていなかったので、「クルド系王朝」とみなすことは失当であろう。