歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

File:日本の女性君主たち(連載第9回)

Ⅱ 上代の女性君主たち

 

二 女帝の世紀:奈良時代


4:孝謙天皇(718年‐770年)

 

(ア)登位の経緯
天平十年(738年)に史上初かつ現在のところ唯一の女性皇太子として立太子し、父・聖武天皇の後継者に指名されていた中、天平勝宝元年(749年)に聖武の譲位により即位した。

 

(イ)系譜
聖武天皇光明皇后の長女として生誕。父方は天武天皇直系であり、母方からは藤原氏の血も引く。

 

(ウ)治績
光明皇后の項で見たとおり、孝謙天皇即位に際しては、母の光明皇后紫微中台を通じて実権を掌握したため、天皇の権力は形骸的であったと考えられる。ただし、天武天皇の孫であった道祖王孝謙の後継とする父・聖武の遺詔を覆し、もう一人の孫・大炊[おおい]王を後継としたことには、孝謙の意志が働いたと見られる。これに関連して、孝謙の廃位を企てた橘奈良麻呂の乱を鎮圧し、連座した道祖王も拷問・獄死に追い込んだ。

 

(エ)後世への影響
最終的に対立関係に陥るとはいえ、母が重用した藤原仲麻呂孝謙の従兄)の権勢の著しい増長を許したことで、藤原氏専横の最初の基礎が築かれたのが孝謙時代とも言える。

 

5:称徳天皇(=孝謙天皇重祚

 

(ア)登位の経緯
孝謙天皇天平宝字二年(758年)、病気の光明皇太后に仕えることを理由に大炊王淳仁天皇)に譲位し、太上天皇となっていたが、天平宝字八年(764年)、再び即位した。光明皇太后の没後、対立を深めていた藤原仲麻呂恵美押勝)がクーデターを起こすも失敗に終わったことを受けての重祚。出家の身からの初の即位例となった。

 

(イ)系譜 略

 

(ウ)治績
太上天皇時代に一度病床に就いた際、祈祷を通じて親交を深めていた法相宗派僧侶・道鏡太政大臣禅師、次いで法王に任じ、道鏡が出自した弓削氏一族や道鏡派僧侶を登用した仏教政治を展開した。他方で、体制に反対する勢力には弾圧を加え、冤罪も多発する一種の恐怖政治を敷いた。独身で実子がなく、皇太子も不在であったところ、非皇族の道鏡に譲位するという奇策を計画したことが、いわゆる宇佐八幡宮偽神託事件につながる。宗教政策としては母の光明皇后にならって仏教を重んじ、神社内への神宮寺の設置も進めたため、神仏習合化が加速した。

 

(エ)後世への影響
称徳天皇崩御後は、結局、称徳の遠縁で天智天皇の孫に当たる白壁王が即位し、光仁天皇となり、その皇子が桓武天皇として平安朝を開くことになるため、実質的に皇統は天武裔から天智裔に交代したと言える。女帝に関しても、称徳天皇を最後に以後、江戸時代まで850年以上の長きにわたり、女性は皇位を継承しないことが事実上の慣例=慣習法として定着した。また、天皇再即位=重祚の事例としては現時点で最後の例である。

 

 

※備考
称徳天皇崩御後、なぜ800年以上にわたり女帝禁忌が慣習法と化したかについては明確な理由は解明されていないが、一つには称徳天皇としての重祚時代は道鏡の増長を許し、謀略と恐怖政治の時代であり、孝謙時代にも増して後継者をめぐる政治混乱も招いたことから、女性天皇への忌避感が朝廷内で強まったことがあると考えられる。さらに、平安朝時代に藤原氏の独占体制が確立されると、藤原氏が皇室外戚として権勢を保つうえでも女帝は不都合になったこともあろう。平安時代以降に、称徳天皇道鏡が男女関係にあったとする風説が作り出されたり、果ては道鏡巨根説のような品性を欠く噂話が流布されるようになったのも、女帝禁忌を補強するための下世話な風評であったと考えられる。
ちなみに、道鏡は700年頃の生まれと推定されており、称徳天皇時代にはすでに60歳代の高齢であり、天皇(称徳も40代後半)との男女関係は考えにくい。もっとも、道鏡の生年は不詳であり、もっと若かったとしても、信仰心が篤かった称徳天皇が仏僧との密通という破戒的行動に及んだとも考えにくい。なお、僧籍政治家として、道鏡を再評価する動きもある。