歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

File:日本の女性君主たち(連載第5回)

Ⅰ 古代の女性君主たち

 

三 飛鳥時代の二人の女性オオキミ

 

2:皇極天皇(594年‐661年)

 

(ア)登位の経緯
推古女帝を継いだ男帝の舒明天皇崩御後、舒明の皇后から直接に即位した。蘇我氏の傀儡として実権を持たなかった舒明同様、蘇我氏によって傀儡として後継のオオキミに立てられたと考えられる。

 

(イ)系譜
敏達天皇の曽孫に当たるが、祖父の押坂彦人大兄皇子、父の茅渟王[ちぬのおおきみ]ともにオオキミには即位しておらず、当時のオオキミ家では傍流に属した。当初、用明天皇の孫に当たる高向王[たかむくのおおきみ]と結婚したが、死別もしくは離縁し、叔姪婚により叔父に当たる舒明の皇后に立后された。

 

(ウ)治績
日本書紀』にも、皇極天皇時代の国政は蘇我入鹿が掌握していたと明記されるとおり、実権をを持たず、独自の事績は存在しないに等しい。ただし、治世末期に勃発した乙巳の変に自らも関与していたとすれば、蘇我宗家の打倒が事績と言える。

 

(エ)後世への影響
関与の有無を問わず、治世中に乙巳の変が勃発し、国政を壟断していた蘇我宗家が滅んだことで、オオキミ本来の権力が回復されたことは、永続的な影響を持った。

 


※備考
蘇我入鹿が実質上君主のごとくに振舞っていたことや、乙巳の変の舞台となった三韓からの使者を迎賓する儀典で、入鹿が一番最後に入場してきていることなどからすると、少なくともある時点で、入鹿自身がオオキミもしくはそれに相当する君主の地位に就いていた可能性もある。一方では、皇極在位中の蘇我氏による聖徳太子の遺子・山背大兄王一族襲撃・族滅事件をめぐっては、聖徳太子系の上宮王家の打倒を画策した皇極を真の首謀者とみなす木本好信の異説もある。

 


3:斉明天皇(=皇極天皇重祚

 

(ア)登位の経緯
皇極天皇乙巳の変の後、いったん実弟軽皇子孝徳天皇)に譲位し、皇祖母尊[すめみおやのみこと]の称号を得たが、孝徳の崩御後、舒明との間の長男・中大兄皇子の策によって重祚、再登位した。

 

(イ)系譜 略

 

(ウ)治績
阿倍比羅夫を派遣して北方の蝦夷地を探査し、大和朝廷の影響力を北方に拡大した。また、対外的には、朝鮮半島の同盟国であった百済新羅・唐連合軍によって滅ぼされた後、百済再興のため、筑紫に実質的な臨時遷都を敢行し、百済救援態勢を築いた。一方、公共工事を好み、飛鳥や筑紫に多くの宮を造営したほか、長大な溝や石積みの垣など自身の道教信仰に関連のある工事を多発したため、時の人から「たぶれ心の溝工事。無駄な人夫三万余。垣造りの無駄七万余。宮材は腐り、山頂は潰れた」と批判された。この『日本書紀』の記述は、おそらく政策的な環境破壊に関する最古のものかもしれない。

 

(エ)後世への影響
オオキミ(天皇重祚の先例を作った。また、いったん譲位後に就いた皇祖母尊の地位は、後の上皇制度の原型となった可能性もある。また、自身の関与は不明ながら、孝徳の後継者と目されていた甥の有間皇子が謀反の罪で処刑されたことで、自身の二人の子息である中大兄皇子大海人皇子の各子孫が以後、オオキミ→天皇家の皇統に確定した。

 

 

※備考
そもそも斉明重祚に至った経緯は、中大兄皇子が難波に遷都していた孝徳に反旗を翻し、百官や皇后まで連れ去る形で飛鳥に還都した事実上のクーデターによっていたことや、有間皇子謀反事件も中大兄皇子が間諜として蘇我赤兄を送り込んで謀反を煽っていることなどから、斉明朝の実権は中大兄皇子にあったと考えられる。あるいは、実際には中大兄皇子がオオキミに即位しており、斉明は皇祖母尊の称号のもと、後の上皇のような立場で高所から政治に参与していた可能性もあるかもしれない。