歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第18回)

十八 純祖・李玜(1790年‐1834年)/憲宗・李奐(1827年‐1848年)

 23代純祖は先代正祖の次男であったが、11歳での即位となったため、先々代英祖の継室で、正祖没後に政治的に復権した貞純王后の垂簾聴政を受けた。貞純王后は反正祖の実力者として、雌伏しつつ復権の機を窺っていたのである。
 彼女の垂簾聴政期は3年ほどだったが、その間、正祖時代に台頭した実学派学者らを弾圧・粛清する反動政治を展開し、かつ自身が出自した安東金氏の政治力を高め、以後「勢道政治」と呼ばれる安東金氏の専横時代の道筋を準備した。
 純祖は、晩年になって安東金氏を牽制すべく、もう一つの豪族豊壌趙氏を対抗的に起用して競わせるが、このような政策は両氏の権力闘争を激化させ、かえって政情不安を招いただけであった。さらに、妃の出身である豊壌趙氏を起用し、摂政として政務を主導していた孝明世子に先立たれたことも、純祖にとっては打撃であった。
 結局、純祖は34年に及ぶ長期治世だったわりに具体的な成果には乏しく、この間に朝鮮王朝を衰微させる反動的な「勢道政治」が確立されただけであった。
 純祖に続いて立った24代憲宗は孝明世子の遺子で、純祖の孫に当たるが、父と同様、7歳という年少での即位となり、祖母の純元王后が7年にわたり垂簾聴政を取った後に、親政を開始した。
 しかし、先述したとおり、憲宗の母神貞王后は豊壌趙氏であったため、安東金氏との権力闘争はいっそう激化した。そうした政情不安に加え、憲宗自身も病弱のため、国王権力は決定的に低下し、その15年ほどの治世中に二度のクーデター未遂事件に見舞われた。
 一方で、従来からのカトリック弾圧政策にもかかわらず、社会の動揺と将来への不安から、キリスト教信者の増加を抑止することはできていなかった。体制は頑強に弾圧の度を増し、多くの殉教者を出すが、効果はなかった。
 治世末期になると、東アジアへの進出を狙う西洋列強の外国船の朝鮮接近が頻発した。この状況は隣国日本の幕末とも似ていたが、朝鮮当局の対応は徹底した排撃一辺倒であった。
 そうした中、憲宗は1849年、23歳で早世してしまう。かくして、西洋暦でちょうど1800年に即位した純祖から数えて、19世紀前半をほぼカバーした純祖/憲宗の時代は、朝鮮王朝が内憂外患に悩まされる時代の始まりとなった。


§15 宗義質(1800年‐1838年)/義章(1818年‐1842年)

 宗義質〔よしかた〕は先代の父義功から死の前年1811年に年少で家督を継承し、13代藩主となった。そうした事情から、成長するまでは親政を行なえず、家臣団は派閥・利権抗争に走った。父の時代からの藩政の動揺が継続したのである。
 財政経済面でも、朝鮮貿易の収支が悪化をたどる中、治世中1823年と31年の二度にわたる城下府中の大火が追い討ちをかけ、藩の斜陽化は覆うべくもなかった。対馬藩が接待役を務める朝鮮通信使も、朝鮮王朝・幕府双方の財政難もあり、義質が家督を継いだ1811年が最後となったが、財政難の藩にとってはこれ幸いだったかもしれない。
 こうして対馬藩主にとって栄進の最大の足がかりでもあった朝鮮通信使接待がなくなったにもかかわらず、義質は歴代藩主中でも最高位の左近衛少将に昇任したが、その翌年、死去した。享年39歳ながら、在任期間は26年と比較的長かった。
 後を長男義章〔よしあや〕が継いだが、病弱と見え、わずか3年で死去した。幕末へ向けた転換期に短命藩主が続いたことは、藩政の行方を危うくした。加えて、義章が正室長州藩主毛利家から迎え、長州藩との姻戚関係を生じたことが、幕末、長州藩の動静に巻き込まれる要因ともなるのだった。