歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

弾左衛門矢野氏列記(連載第8回)

八 矢野弾左衛門集司=弾譲(1815年‐1872年)

 
 第10代(または第11代)弾左衛門集民が実子なく夭折すると、弾左衛門は再び家の継承危機にさらされる。わざわざ広島から養子で迎えた当主の急死であったから、事は深刻であった。文政十一年(1828年)の集民の死も急であったらしく、弾左衛門役所では死亡した集民名義で―死の事実を秘匿していたものか―奉行所と養子の選定に関してやりとりしている。
 しかし、集民が出た安芸の河野家に適任者がなく、今度は信州の長吏頭・大友彦太夫の弟・周司に白羽の矢が立った。大友家が選ばれた理由もまた不明であるが、やはり弾左衛門直轄の関八州の長吏家が避けられたことは河野家の場合と共通している。
 ただ、先代との系譜上の連続性を担保するため、大友周司はいったん河野家の養子となり、そこからさらに弾左衛門家の女系養子(唯一残っていた血縁者である集益の娘かうの養子)となるという複雑な二段階養子の過程をたどって弾左衛門家に入っているのは、家の形式的な継続性を重視する封建的な発想からであろう。
 こうして、先代の死から一年ほどの空位期間を経て、周司が「集」の字を必ず本名に含める慣例に従って名を「集司」に改め、第11代(または第12代)弾左衛門に就任する。当時の記録によれば、集司は大名行列を擬したような大仰な行列を作って浅草新町入りしたとされる。このようなエピソードも、当時の弾左衛門家の繁栄ぶりと権威を示している。
 集司は就任時、当時の成人下限年齢に近い15歳ほどであったが、9年後に弾左衛門を事実上罷免されてしまう。歴代弾左衛門で罷免されたのは、集司が最初で最後である。罷免の明確な理由は不明であるが、行状や職務能力の欠如が問われたようである。
 ちなみに、集司を罷免したのは時の南町奉行筒井政憲であるが、民情に精通し、私利私欲で法を曲げず、統率力をもって迅速、公平な裁きを下したと評される筒井の厳格な行政監督の姿勢も、罷免の背景にあったかもしれない。
 結局、集司は病気理由の辞職願の形で弾左衛門を退任させられ、20代で隠居生活に入った。納得していなかったらしい集司は支持者の助けを借りて復職請願運動を展開するが、これは却下され、実現しなかった。
 集司にも実子はなく、次の弾左衛門は摂津の長吏家から寺田小太郎という17歳の若者が集司の養子として迎えられることになったが、集司はこの第12代(または第13代)弾左衛門集保の時代に起きた被差別民の騒乱事件である武州鼻緒一揆弾左衛門支配下の者が加担していたことの監督責任を問われ、松本の実家への退去・押込処分を言い渡されてしまう。
 この弘化二年(1845年)の重い処分を下したのは、遠山の金さんこと遠山景元であった。遠山は北町奉行を罷免された後、この年、異例にも再び南町奉行として返り咲いていたのであった。
 隠居者が責任を問われるのも異例であるが、集司はよほど幕府からにらまれていたようである。その後、処分を解かれて再び江戸へ戻った集司は近代名・弾譲を名乗り、幕末動乱に巻き込まれつつ、維新を越えて明治五年(1872年)まで存命する。その後半生は最後の弾左衛門となる集保(近代名・弾直樹)の時代と交錯するので、改めて記すことにする。