歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

ロマニ流浪史(連載第4回)

三 ビザンツ帝国のロマニ

 

 ロマニと見られる集団が欧州地域で最初に確認されたのは、ビザンツ帝国である。ビザンツ西アジアと欧州をつなぐ位置にあり、欧州への入り口であったから、ペルシャアナトリアを経由して西へ移動していったロマニが最初に現れる場所としては不自然でない。
 ビザンツに現れたロマニは、ギリシャ語でアツィンガノイと呼ばれていた。アツィンガノイは異教徒を意味するが、本来の語源はアシンガノイで、ユダヤ教の異端者を指していた。両者が混同されたらしいのは、ともに占いをよくしたことやロマニがユダヤ教徒と誤認されたからとも言われる。
 いずれにせよ、ビザンツのロマニは西暦800年頃からギリシャ南東部のトラキアで確認されており、この時代にはすでにビザンツに到達していたことがわかる。かれらは1054年の東西教会分離(大シスマ)の後、コンスタンティノープルの城壁外に定住するようになった。
 もう少し時代下り、14世紀に入ると、アイルランド人のフランシスコ会修道士サイモン・セメオニスの残した記録に、アツィンガノイとよく似た集団がクレタ島に居住していたことが報告されている。これは欧州のロマニに関する西洋年代記者による最古の現存記述とみなされている。
 それによると、かれらはカインの種族であると主張し、ビザンツ式の典礼に従っていた。また、かれらは30日以上同じ場所に留まることはほぼなく、 30日目を過ぎると、アラブ人のような小さな長方形の黒いテントを張って野原から野原へ、洞窟から洞窟へとさまようとされる。ここには、移動民としてのかれらの生活ぶりが表現されるとともに、この時代にはギリシャ正教徒となっていたことも知られる。
 ちなみに、この時代のクレタ島は第四回十字軍に便乗した1204年のベネチア共和国による征服以来、ビザンツを離れ、ベネチア共和国の領土となっており、西方教会カトリック)とルネサンス文化が持ち込まれていたが、クレタ島のロマニは宗教上は依然として東方教会系であったことを示している。
 一方、1386年以降に同じくベネチア共和国領土となる直前のイオニア海のコルフ島に(当時はナポリ王国領)、1360年頃、アツィンガノイを農奴として使役する封土(フェウドゥム・アチンガノルム)が設置されている。
 このようにギリシャ島嶼部にアツィンガノイ=ロマニが散在しているのは、ビザンツ本土では疎外され、首都コンスタンティノープルに居住が許されなかったことを反映しており、これは14世紀以降、またビザンツ帝国自身がオスマン・トルコによって滅ぼされる15世紀以降、ロマニがさらに西へ移動していく契機となったであろう。