歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

弾左衛門矢野氏列記(連載第4回)

四 矢野弾左衛門集久(?~1709年)

 

 4代目弾左衛門集久は幼名を介次郎といい、祖父や父と同様に次男のようである。4代目集久は、曾祖父に当たる初代から三代にわたる時代に整備された弾左衛門制度の基礎の上に、歴代最長の40年間在職し、後述のように管轄紛争では敗訴もしたが、弾左衛門制度の基盤を一層強化なものにした。
 その前半の20年は大過なく、おおむね順調だったようである。集久はかなり野心的であったらしく、少なくとも二度にわたり自ら見繕った土地の拝領を幕府に願い出ている。これは彼が被差別身分を脱して御家人に成り上がろうとしていたことを示唆するが、幕府側は武家地が近いなどの理由からいずれも却下している。
 町人身分から武家への上昇が認められた例はあるが、幕府としても被差別のえた身分を御家人に取り立てることはさすがにできなかったのであろう。その代わりというわけでもないが、集久の晩年に灯心原材料となる藺草の独占的な卸販売権が認められている。以後、これは石高換算で500石に相当するという利益を保証する弾左衛門家の経済特権となった。
 集久が試練に立たされたのは、後半の20年である。江戸時代の転換期でもあった元禄時代をはさむこの時期、彼は弾左衛門の管轄事項に直接関わる三つの訴訟に被告として巻き込まれることになった。
 弾左衛門家は中世以来「賤業」とみなされてきた17に及ぶ職種の支配を鎌倉時代源頼朝から認証されていると主張し、その裏付けとされる「証文」まで所持していた。しかし、この主張及び「証文」の信憑性は疑わしく、元禄以降、弾左衛門支配下にあったいくつかの職種が弾左衛門からの「独立」を訴えて、幕府に提訴したのである。
 その最初は、年度に異説あるも、1689年(元禄二年)に起きたとされる盲人の自治的職能組織・当道座の座頭を原告とする訴訟である。この訴訟で、幕府は当道座側の主張を認めて勝訴させた。同時に、当道座側が引き合いに出した山守、関守といった番人職も弾左衛門支配下からの独立が認められた。
 幕府がこうした画期的な司法判断を下した理由は不明であるが、琵琶法師の互助組織を由来とする当道座は室町時代以降、公家の久我家を本所とする公認職能団体として社会的な地位が上昇しており、「賤業」として弾左衛門支配下に置くことは不当と認識したのかもしれない。
 一方、当道座訴訟に触発されてか、1692年(元禄五年)に上州下仁田の長吏頭馬左衛門が起こした同種の訴訟では、幕府は逆に訴えを棄却し、弾左衛門側を勝訴させた。馬左衛門側は長吏とえたは元来別ものであり、えた頭の弾左衛門は長吏の支配権を持たないという理屈を立てていた。当道座訴訟と正反対の判決となった理由としては、地方の長吏を弾左衛門支配から外すことは身分秩序の混乱につながると判断したものか。
 この後、しばらく同種の訴訟は途絶えるが、1708年(宝永五年)になって、傀儡子(または形浄瑠璃師)・小林新助一座の地方公演に際して、弾左衛門の許可を受けなかったことを理由に弾左衛門が手下を派遣して上演を実力で妨害したため、役者側が弾左衛門を訴える事案が起きた。これは先代の時代に起きた金剛太夫事件の再発に近い事案であった。
 金剛太夫事件では弾左衛門側に軍配を上げた幕府であったが、今事案では最終的に役者側に軍配を上げたのであった。最終的というのは、正式な上訴制度を欠いた時代、当初の奉行所レベルの判断では先例に従い弾左衛門勝訴となりかけたところ、一座側の異議を受けて老中ら幕閣まで加わった事実上の控訴審で逆転判決となったからである。
 この訴訟でも、一座側が引き合いに出した歌舞伎役者など芝居芸能者全般が併せて弾左衛門支配下を外れることとなった。このような訴外の第三者にまで判決が及ぶことは現代訴訟ではあり得ないが、行政司法が未分化の封建訴訟では頓着しなかったようである。
 これは金剛太夫判決の実質的な判例変更と言えるが、幕府がこのような新判断を示したのは、元禄時代をくぐったこの時代、役者全般の社会的地位が上昇し、有名役者は公家や大名など上級武家の面前でも上演するスター的存在であり、もはや「賤業」に非ずとの認識によるものと思われる。先行の当道座訴訟と同様の判断である。
 かくして、集久後半期における三つの訴訟の結果は1勝2敗。弾左衛門にとってはいささか不利な結果である。特に役者訴訟での判例変更は弾左衛門にとって櫓銭という収益を失う経済的な損失が大きかったであろう。その失意が原因でもなかろうが、集久は役者訴訟の翌年、1709年(宝永六年)に没している。