歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

矢野弾左衛門列記(連載第6回)

六 矢野弾左衛門集囿(1722年‐1788年)集益(1746年‐1790年)

 
 第5代(または第6代)弾左衛門集村は39年間在職した後、たびたび奉行所に願い出て息子の織右衛門に職を譲り、隠居することを許された。彼が生前の隠居にこだわったのは、自身の父が正式襲名前に亡くなり、祖父から12歳での世襲という異例の事態となったことに鑑みての配慮であろう。
 こうして、第6代(または第7代)弾左衛門となった織右衛門(集囿)は27年間在職するが、最初の10年間は親松齊と号した先代が存命であったため、おそらくは父の後見下に職務に当たったと思われる。
 実際のところ、集囿以降、幕末にかけて、弾左衛門の情報がとみに乏しくなり、歴代の事績もはっきりしなくなるが、このことは弾左衛門の権勢が衰えたのではなく、むしろ集村までの各代弾左衛門の働きにより、制度としての弾左衛門が確立・安定化したことによるものと考えられる。
 集囿は、安永四年(1775年)、父にならって跡を息子の要人(集益)に譲り、隠居した。彼は父よりも長い13年間の隠居生活を送った。第7代(または第8代)弾左衛門集益は父の死後2年で自らも死去しているので、その在職期間の大半は父の後見下にあったと見られる。
 
 集囿・集益父子の時代は、田沼意次の全盛期と重なっている。田沼は従来の農本主義政策を改め、商業の振興を図り、とりわけ株仲間を奨励した。このことは灯心の専売権を保持し、独占商人という顔を持つ弾左衛門家にとっても有利に働いたはずであり、田沼時代の弾左衛門家は経済的にも繫栄したであろう。
 この時期の弾左衛門の事績として、天明の大飢饉に伴う物価高騰で困窮者が増したことから、無宿人の救い小屋を役宅敷地内に設置したことがある。こうした江戸の福祉事務所の役割は弾左衛門役所に託されていたわけだが、この時には1700人の収容者が病死したとされる。劣悪なすし詰め環境下で感染症が蔓延した可能性もあるが、こうしたことはこの時代の福祉の限界であっただろう。
 ちなみに、特段の事績が記録されない集益の小さな事績として、天明七年(1787年)、一族菩提寺である本龍寺に弾左衛門初期四代の合祀墓を建立したことがある。このことは初期弾左衛門の時代は墓石もまだ小ぶりであったことを示唆するとともに、こうした先祖崇拝の儀礼は、この時代の弾左衛門家の繁栄をも暗示している。