歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

松平徳川女人列伝(連載第12回)

十八 広大院(1773年‐1844年)

 8代将軍徳川吉宗享保の改革は大奥にも及び、その職員数の削減はもとより、妻妾の数や大奥の隠然たる政治的影響力もそがれることになった。そのため、吉宗からその子・家重、孫の家治に至る三代の妻妾からは特筆すべき人物は出ていない。この時代の将軍妻妾は子孫を産む役割しか期待されていなかったように見える。
 そのことは、後の将軍家となる御三卿・一橋家の祖・徳川宗尹を産んだ吉宗側室の深心院(1700年‐1721年)、同じく吉宗側室で、御三卿田安徳川家の祖・徳川宗武を産んだ本徳院(1696年‐1723年)、さらには9代将軍家重の側室で、三つ目の御三卿となる清水徳川家の祖・徳川重好を産んだ安祥院(1721年‐1789年)など、吉宗裔の新たな分家となる御三卿の家祖を産む側室が輩出した点に見て取れる。

 
 大奥が再び大規模化し、政治的な影響力も擁するようになったのは、まさに御三卿一橋家から出た第11代将軍徳川家斉の時代からである。妻妾数16人とも言われる家斉の時代、にわかに巨大化した大奥の長となったのは、異例の正室(御台所)・広大院であった。
 広大院が異例なのは島津藩主・島津重豪の娘(幼名・茂姫)であったことである。第3代家光以来、将軍御台所は格式上、公家や宮家から迎えることが慣例であったところ、初めて外様大名からの輿入れであった。しかも、関ヶ原の戦いでは敵軍に属した外様代表格の島津家出身である。
 ただし、茂姫はすでに3歳にして家斉(幼名・豊千代)と許嫁の関係にあり、江戸で家斉と共に養育されており、突然決まった縁談ではなかった。これは、正室・保姫が一橋家出身であった重豪と、家斉の実父にして保姫の弟でもあり、家斉時代の隠然たる実力者となる一橋家家長・徳川治済の計らいによるものかもしれない。
 茂姫が家斉の将軍就任に伴い御台所となると、実父の島津重豪外様大名ながら、将軍岳父として実力を強め、彼女自身も、家斉の数多い側室が生んだ子女を自身の養子として扶養し、大奥の長として振舞った。
 ちなみに、自身は第2代将軍秀忠の正室で同じく武家出自の崇源院以来となる男子・敦之助を産んだが、世子は側室・お楽の方が先に産んだ敏次郎(後の12代将軍家慶)と定められていたため、いったん無嗣絶家していた清水徳川家を継いだが、4歳で夭折した。
 茂姫は形式上、五摂家近衛家の養女となり、近衛寔子(ただこ)と改名していたとはいえ、薩摩藩との関わりは続いており、実母の実家である市田家の家格を高め、市田氏を通じて藩政にも介入するなど、江戸と薩摩をつなぐ存在として権勢を持った。
 彼女は家斉が隠退して大御所となってからも大御所の正室たる「大御台」としてなお大奥で実権を保持した。さらに家斉死後、落飾して広大院と号してからも、朝廷から従一位を授けられて、生涯権勢を保った。
 このように、島津氏出身の正室が登場し、しかも幕末の天保時代まで長く権勢を保ったことは、薩摩藩の権威を高め、やがては薩摩藩が倒幕運動の中軸となる路線を、直接ではないにせよ、用意する伏線となったとも考えられる。