歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

もう一つの中国史(連載第14回)

五 遊牧民族の時代Ⅰ

 

(2)北魏の覇権
 鮮卑慕容部に続いて勢力を伸張させてきたのは、同じ鮮卑系部族の拓跋部である。拓跋部は内モンゴルのフフホトを根拠地とする部族集団であったが、4世紀初頭に西晋を助けて匈奴系の前趙と交戦した功績で華北に領土を安堵されたことが飛躍の土台となった。
 かれらは五胡十六国時代の初め、315年に代を建国した。代も五胡十六国の一つに数えられるが、華北の辺境領主的な位置にあったうえ、内紛が多く、60年ほどしか続かなかった。それでも、万里の内長城域まで領土の割譲を受け、華北の広い領域を領有したほか、未完に終わったとはいえ、漢化政策を進め、後継国家・北魏の基礎を築いた。
 代が氐族系の前秦によって滅ばされた後、386年に代を実質上復活させる形で建国されたのが、北魏である。建国者・拓跋珪は積極的な軍事行動で慕容部の後燕などを押さえて勢力を拡大し、398年には皇帝(道武帝)に即位した。

 その後の北魏は道武帝の孫・太武帝の439年に華北統一に成功し、五胡十六国時代は終焉する。その勢いで太武帝はその頃東晋を廃して江南に建国していた漢人系の宋(南朝宋)にも侵攻し大敗させたが、征服はできず、回軍した。
 これ以降、北魏は江南の漢人系王朝とは並立的な関係を維持したことから、いわゆる南北朝時代に入る。この間、漢人系の南朝は政情不安で、四つの王朝が交替したのに対し、北魏は534年に東西に分裂するまで、統一性を維持した。
 華北統一に成功した北魏は、部族的伝統の保守を主張する民族派勢力を抑えつつ、漢人系官僚を中心に漢化政策を強力に推し進めた。特に漢族の血を引く馮太后とその息子で第6代孝文帝の時代には均田制などの社会経済改革が打ち出され、北魏はますます貴族制に基づく漢風王朝の性格を増していった。
 しかし、こうした漢化主義と民族主義の対立関係は結局本質的には止揚されず、孝文帝没後間もなく、民族派の蜂起の性格を持つ北方軍閥の反乱(六鎮の乱)が勃発した。これに皇室の内紛が重なり、534年には東西に分裂し、東魏西魏の並立状態となった。
 かくして北魏の実質的な華北統治期間は100年弱であったが、この間、太武帝時代に漢人官僚・崔浩の主導する行き過ぎた漢化政策により廃仏政策が採られた一時期を除けば、北魏では仏教が厚く保護され、中国大陸に仏教が広く定着するきっかけとなった