五 遊牧民族の時代Ⅰ
(1)遊牧諸民族と五胡十六国
中国史において北方及び西方の遊牧諸民族の果たした役割は、極めて大きなものがある。大きく俯瞰して、三国時代に続く五胡十六国時代以降モンゴル帝国版図に中原が組み込まれた元の時代までのおよそ千年間の中国史を主導したのは遊牧諸民族だったと言っても過言でない。
その遊牧民族の時代の先駆けとなったのが、匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の五つの有力遊牧民族が華北で割拠した五胡十六国時代である。五胡十六国時代の始まりは、304年の前趙の建国に見るのが通常である。
魏の重臣・司馬炎が建てた晋(西晋)は三国時代の分裂を止揚して漢人系統一国家の樹立にいったんは成功したが、間もなく内乱(八王の乱)に陥った。この乱の当事者らがこぞって軍事に長けた遊牧諸民族を傭兵として起用したことが、遊牧諸民族の軍事的・政治的な台頭を用意したのだった。
南匈奴単于の流れを汲む劉淵によって建国された前趙はその先駆けであったが、長続きすることはなかった。他の諸民族もまたそれぞれに実力を蓄え、建国したからである。実質10年ほどに及んだ永嘉の乱はそうした諸民族の内戦であった。
その中から台頭したきたのが鮮卑族である。前述のように、鮮卑は匈奴に追われた東胡から派生したモンゴル系と見られる民族であるが、その一部族である慕容部は三国時代末期に出た部族長・慕容廆[ぼようかい]の時に強大化し、その子孫が十六国の雄国となる前燕・後燕・南燕を相次いで建国した。
また慕容廆の異母兄に当たる慕容吐谷渾[とよくこん]は一族の内紛から慕容部を放逐された後、西の青海地方へ移住し、独自に建国した。始祖の名をそのまま取って吐谷渾と呼ばれたこの西方鮮卑系国家はシルクロード交易の利権も掌握し、300年近くにわたりチベット地方の強国として君臨したが、7世紀に入ると分裂・衰退し、663年には新興のチベット系吐蕃によって滅ぼされた。
本来の遊牧国家の性格が強かった吐谷渾を例外として、鮮卑慕容部系諸国は短命に終わったものの、早くから漢化政策を採用し、魏や晋など漢人系諸国の制度や慣習を積極的に摂取したことで、後の北魏や隋唐など同じく鮮卑系覇権国家の漢化政策の先駆けをなしたとも言える。
その一方で、五胡十六国時代には漢人の遊牧民族化—特に鮮卑化—という逆転現象も見られた。その典型的な一例として、遼西地方で短期間覇を握り北燕の皇室となった馮一族がある。馮一族からは、後に北魏の太后として垂簾聴政による改革者となる文成文明皇后が出ている。
北魏の分裂滅亡後に南北朝分断を止揚した隋の楊氏、隋を継承した唐の李氏の両皇室もこうした鮮卑化漢人の系統と見る見解もある。この見解が正しいとすれば、隋唐は鮮卑化漢人が再漢化によって本来の民族性を回復した体制という興味深い事例となる。