歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版アイヌ烈士列伝(連載第5回)

五 ハウカセ(生没年不詳)

 シャクシャインと同時代、シャクシャインとは全く異なるタイプの烈士がいた。石狩川流域を本拠地とし、その勢力圏が南はオタルナイ(小樽)、北はマシケ(増毛)方面にも及んだと言われる惣乙名ハウカセである。和人から「石狩の蝦夷頭」・「石狩狄大将」などと称され、「下人狄千人程」を持つとも記録された首長級の人物である。
 ただし、シャクシャインのように多くの記録はなく、シャクシャインの戦いにおいてシャクシャインとは対照的な路線を行ったアイヌ指導者として垣間見えるだけの人物であり、その人物像や事績は漠然としている。
 ハウカセが知られているのは、シャクシャインの戦いで中立を保持したことによってである。彼は勢力圏の有力者に対し、シャクシャインに呼応して武装蜂起しないように指示していた。といっても、全くの無抵抗・屈服主義ではない。和人との戦いに勝ち目はないと見立てていたのである。
 実際、ハウカセには近江八幡出身の和人・金太夫という娘婿がおり、金太夫に軍事顧問の役割をさせ、シャクシャインの戦い当時、40から50挺の鉄砲を所持、石狩河口に300の武装小屋を建てていたという。言わば、武装中立主義である。
 ハウカセの見立てどおり、敗北に終わったシャクシャインの戦いの後、松前藩からの呼び出しにも応じることはなかった。藩側もハウカセの潜在的な武力を恐れて手を出さなかったため、石狩のアイヌ勢力とはある種の平和共存が図られることになった。ハウカセは、武装中立主義により、戦わずしてアイヌの自立性を保持したと言える。
 彼はまた、やり手の交易商人としての顔も持ち、本州の津軽藩秋田藩とも交渉を持ち、和産物や銃器の独自の交易ルートを確保していたため、松前藩が戦後に科した交易船の派遣中止にも動じることなく、勢力圏内の経済的な権益は確保していたようである。
 寛文十二年(1672年)六月にハウカセと日本海アイヌ200人が松前に参上」との記録から、この頃にはハウカセは松前藩とも交流するようになっていたと見られる。これを最後に、消息が伝わらなくなるため、ハウカセは17世紀後半に没したのであろう。
 以後のアイヌ領域は、米作に向かない蝦夷地を領地とし、アイヌ交易に依存する松前藩特有の封建的商業システムである商場知行制や場所請負制が強制的に施行されることにより松前藩の商業政策に合わせて分割され、ハウカセのような自立性を保った惣乙名の勢力もそがれ、実質的に松前藩支配下に組み込まれていくことになる。