歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

弾左衛門矢野氏列記(連載第1回)

 
 弾左衛門矢野氏は、江戸時代、士農工商四身分の外にあった下層民(えた/ひにん)の頭領として、刑罰の執行役をはじめ、えた/ひにんに任された業務を統括した幕府役人であった。弾左衛門はその職名であり、矢野氏はその職を代々襲名・世襲し、江戸時代の全期間を通じ、近年の通説によれば幕末まで全13代(実質は12代)に及んだ。
 全13代と言えば、全15代の徳川将軍家に匹敵する継続性であり、天皇/公家をも統制下に置いて江戸時代全階級の頂点に位置した征夷大将軍徳川氏に対し、最下層にあって幕藩体制秩序をまさに下支えしていたのが弾左衛門矢野氏であったとも言える。
 その家祖は、家伝によれば、源頼朝から最下層民の統率を託された弾左衛門頼兼なる人物というが、確証はなく、仮冒と見られている。これは三河土豪の出自である徳川氏が源氏系新田氏分家世良田氏を称したように、何かと源氏とのゆかりを強調したがった近世の「名門」と同様の出自虚飾として珍しいことではない。
 自身もえた身分のため、苗字の名乗りが許されなかった弾左衛門家が矢野姓を私称したのは(幕末に一字名の弾氏に改名)、一族の元の本貫地である旧地名(今日の日本橋近辺)に由来することから、古くより江戸近辺に土着していたえた身分の出自と考えられる。
 いずれにせよ、江戸時代におけるえた/ひにんの頭領となった矢野弾左衛門は、その最盛期には江戸を越えて関東一円、さらに駿河や東北にも及ぶ管轄域を有し、ひいては全国のえた/ひにん層に触れを出す権限まで帯びたため、ある種、小さな「将軍」であった。
 実際、最盛期には浅草に役宅を構え、二本差しも与えられるなど武家に準じた格式を持ち、古からの家業であった灯心の独占販売権と配下からの上納金で豪商並みの財力を持つ存在であった。このように下層のえた身分でありながら、事実上は上級武士兼豪商のような位置を占めていた弾左衛門矢野氏は、江戸時代における興味深い身分秩序の逆転を示している。
 その点、江戸を除く関東一円の天領の管理者として農民層を支配した関東代官伊奈氏に類比できるが、伊奈氏はれっきとした徳川譜代の旗本であり、かつ管轄区域も広しといえど関東一円に限られていた点では弾左衛門矢野氏に及ばない。
 また刑罰の執行役という点では、斬首刑の執行役を山田浅右衛門名義で襲名・世襲した山田氏にも類比できるが、山田氏は御家人ではなく浪人扱いながらもいちおうは武家であり、しかも斬首の技術を継承するため、多くが先代と血縁のない門人による継承となった点で弾左衛門矢野氏とは異なっている。
 本連載ではそうした全く独異な一族であった弾左衛門矢野氏歴代の事績を辿っていくが、歴史の表舞台に登場することのなかったえた身分ゆえか、弾左衛門矢野氏歴代に関する信頼に足る情報は乏しく、断片情報の寄せ集めとそこからの推論が主となる。そのため、「列伝」とはなり得ず、「列記」に留まることをはじめにお断りしておきたい。