十 スペイン支配とシチリア語の劣勢
シチリアでは1282年、当時の支配者アンジュー家の兵士による女性暴行事件に端を発した反仏暴動・シチリアの晩祷事件に介入し、シチリアに侵攻したスペインのアラゴン連合王国の支配下に移ることになる。
当時のアラゴン連合王国は元来バスク系のアラゴン王国とスペイン系のカタルーニャ公国等の連合体であり、系統不明言語のバスク語を基層としながらロマンス語系言語として形成されたアラゴン語とロマンス語系のカタルーニャ語の双方が公用語であったが、シチリアではカタルーニャ語が宮廷言語となったため、シチリア語にカタルーニャ語の要素が取り込まれた。
しかし、シチリア語が完全にカタルーニャ語に置き換わることはなく、カタルーニャ語とシチリア語が共に公用語とされ、シチリア語は議会の議事録その他の公文書でも正式に使用され続けたため、シチリア語は保続された。
この後、15世紀末後半にアラゴンが新たにカスティーリャ王国と連合して、スペイン王国が成立すると、シチリアは引き続きスペイン王国の支配下で存続していく。この新生スペイン王国の公用語はカスティーリャ語であり、これが今日までスペインにおける標準スペイン語として定着することになるが、意外にもシチリアではカスティーリャ語が強制されることはなかった。
その要因として、スペインはシチリア統治に当たって総督を置き、言語強制に至るほど高密度の支配をしなかったため、シチリア語が保存されることとなったことが大きいようである。ただし、この時代にのシチリア語にはスペイン語の影響が及んだが、それも限定的であった。
一方で、この時代にはシチリアにもイタリア半島部からの言語的影響が及び、イタリア中部の方言であるトスカーナ方言がシチリアにも流入してきた。その結果、シチリアでもトスカーナ方言が普及し、とりわけ知識人の共通言語となり、シチリア語は次第に庶民層の会話言語へと変遷していく。
こうしたシチリア語の劣勢は、15世紀末、スペインによるユダヤ人追放政策により、それまでシチリアに定住して知識教育にも従事してきたユダヤ人が離散したことで、シチリア語による教育システムが失われたことによっても助長されたようである。
13世紀後半のアラゴンの支配に始まる広い意味でのスペイン支配は中断や曲折を経つつ19世紀後半のイタリア統一まで続くが、この時代はシチリア語が次第に劣勢になり、イタリア語に置き換わっていく長いプロセスであったと言える。