Ⅲ メナンドロス王の登位と全盛
アポロドトス1世がインドにおけるギリシャ人王朝をいちおう樹立しても、そのまま子孫が王位を継承していく安定的な王権を確立することはできなかった。インドのギリシャ人はよそ者ということもあったが、それ以上に、当地のギリシャ人の同士討ち的な覇権争いや権力闘争が絶えなかったからである。
そのため、錯綜したインドのギリシャ人王朝の歴代王について紀伝的にまとめることはほぼ不可能であり、推定在位期間が重複することもしばしばであるが、確かなことは、インドのギリシャ人王朝で最盛期を築いたのは、紀元前160年もしくは150年頃からおよそ20年ないし30年間在位したメナンドロス1世であるということである。
とはいえ、メナンドロス1世が登位した経緯も不確かである。メナンドロス1世はアンティマコス2世から王位を継承したとされるが、両王の続柄は不明である。おそらくは息子ではなく、先王の親族としても傍系と見られる。
メナンドロス1世は今日のパンジャブ州シアールコートに比定されるサーガラを王都に定めたが、一説によれば、この地はメナンドロス自身の出身地という。ただし、サーガラの現在位置については異説もあり、確定しない。
メナンドロス1世は武略に長け、アーリア人の本拠地であるガンジス河流域まで侵出する構えを見せ、アヨーディヤーやパータリプトラのようなアーリア人の古都も征服し、インド・ギリシャ人王朝至上最大の版図を獲得した。
メナンドロス1世の威令と財力は、その鋳造硬貨がブリテン島のウェールズからさえ出土していることや、王の死後も200年近く硬貨がインドで使用され続けたことから、地理的にも時間的にも強かったことが窺える。
他方で、メナンドロス1世は19分野の学芸を修めたという教養人でもあり、インドの高僧ナーガセーナとの仏教哲学的な問答が仏典『ミリンダ王の問い』として残されている。彼は言わば文武両道の慈悲深い君主として、後代の帝政ローマ時代のギリシャ人著述家プルタルコスによっても理想化されている。
メナンドロス1世に強い関心を寄せたプルタルコスは、王の最期についても言及している。それによると、王が陣中で没した後、遺骨を欲しがり争奪した諸都市の間に遺骨が分配され、それぞれで納骨されたという。他方、上掲『ミリンダ王の問い』は、仏教に改宗したメナンドロスは王子に生前譲位し、入滅したとするが、これには仏教的脚色が感じられる。
実際のところ、晩年のメナンドロス1世は内乱に見舞われていたと見られ、陣中での死没説のほうが現実味がある。その死後は王妃アガトクレイアが女王として継ぎ、王子のストラト1世の即位につなげるものの、政敵ゾイロス1世の対立王権が並行するなど、インド・ギリシャ人王朝はまたも混乱に陥るのである。