歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

弾左衛門矢野氏列記(連載第3回)

二 矢野弾左衛門集季(?~1640年)

 

 弾左衛門を先代から襲名した最初の世代となる2代目弾左衛門は幼名を小次郎といい、次男と見られる。その点、初代には関ヶ原の戦い当時15歳の小太郎という長男と見られる一子があって、天然痘に感染したが、白山神社に祈願したところ快癒したので、以後、弾左衛門家は白山神社を信仰したとの逸話が残されている。
 この助かった長男のその後は不明であるが、結局は夭折したのかもしれない。いずれにせよ、弾左衛門家ではしばらく次男の相続が続く。偶然にしては連続しているので、何らかの理由で次男相続が慣例化されていたとも考えられるが、確かではない。
 いずれにせよ、2代目弾左衛門を襲名した小次郎=集季は初代に比べれば、その輪郭がいくらかくっきりと見え始める。2代目の時代は、幕府でも2代目徳川秀忠から3代目家光の時代にかけての時代に相当する。
 この時代に幕府の職制もようやく整備されてきたのに対応し、弾左衛門の役目も明確にされてくる。それを象徴するのが、江戸町奉行から「内記」の内証名を下賜されたことである。内証名は私文書の署名に使用する私的な通称ではあるが、これを町奉行から下賜されたことは弾左衛門が正式に町奉行配下に組み込まれたことを意味する。
 こうした栄誉に浴した契機は、家光の日光東照宮参詣に際して、集季が配下に諸侯の内情を探索させる間諜の役を果たしたことへの報償とされている。長吏(えた)が対諸侯の諜報活動をしたという話は誇張に思えるが、元来、長吏村はしばしば街道沿いに配置され、往来を監視する任務も負っていたことを考えれば、2代目が同様に将軍の日光往還路の監視任務を担った可能性は十分にある。
 さらに、経済的な面でも、2代目は家業である灯心細工を江戸城に上納し、扶持を認められている。扶持といっても正式に御家人となったわけではなく、えた身分に変わりないが、18世紀に入って弾左衛門家が灯心原材料となる藺草の専売権を認められ、武家の扶持500石相当とされる収入を得る基盤を築いたことはたしかである。

 


三 矢野弾左衛門集春(?‐1669年)

 

 2代目集季は23年間在職し、将軍家光在任中の寛永十七年(1640年)に没した。その跡は次男の助右衛門が継ぎ、3代目弾左衛門集信(後に集春に改名)となった。3代目は歴代弾左衛門で三番目に長い29年間在職し、弾左衛門家の権勢を確立した。
 3代目時代で最も大きな出来事は鳥越から浅草に転居を命じられたことである。これは鳥越刑場が浅草に移転したことに伴う措置で、刑吏を務める弾左衛門の在所も新設刑場のそばに移されたのである。
 結果として、浅草北部に弾左衛門の役宅を中心とする弾左衛門囲内(かこいうち)と呼ばれるえたの指定居留地が設定され、1万3千坪余りの狭小な被差別民ゲットーとなった。しかし、弾左衛門役宅は敷地面積700坪余り、書院や庭園も付属した武家屋敷風のもので、一族専用の菩提寺(本龍寺)まで擁した格式からすれば、中小旗本級に匹敵した。
 その権勢は強く、関八州のえた/ひにんの指揮監督に加え、当時は社会的に下層民とみなされていた役者を含む各種の芸能者の支配にも及んだ。それを象徴する出来事が、3代目晩年の寛文七年(1667年)に起きている。
 弾左衛門は管内での芸能興行に際して許認可権を持ち、その際に櫓を組む手数料として櫓銭を徴収していたところ、幕府の許可を得た能役者の金剛太夫弾左衛門には無許可で勧進能を公演しようとしたのに対し、弾左衛門は大勢の手下を公演会場に乱入させ、犬の皮を投げ込むなど上演を力づくで妨害する強硬手段に出たのであった。
 これは老中が介入する訴訟沙汰となったが、時の老中は弾左衛門を勝訴させ、金剛太夫側に注意処分を下した。一介の芸能興行に幕閣が介入したのは、事が下層民の身分秩序に及ぶ事案であったからであり、過剰な権力行使に出た弾左衛門に左袒したのも、当時の幕閣が身分秩序を重視したためと考えられる。
 このように、弾左衛門は仁義を通さない支配下に対しては、やくざまがいの殴り込みも辞さなかったため、町人からは畏怖される存在となったが、一方では江戸における困窮者救済を担う福祉の顔も持っていた。
 それを象徴するのが、3代目中期の明暦三年(1657年)に起きた明暦の大火に際して、幕府から被災者への炊き出しを命じられた弾左衛門が、配下のひにんを指揮し、3000人余りのひにんを動員して被災者支援に当たったことである。これを機に、弾左衛門役所は自ら福祉業務を行うことのなかった町奉行所に代わって、江戸の福祉事務所のような役割も担うようになる。
 ちなみに、明暦大火では大量の焼死者の遺体の収容と埋葬も弾左衛門が指揮し、これを機に焼死者の埋葬のため建立された万人塚を基に浄土宗寺院・回向院が開かれたが、後に千住小塚原に刑場が移設されたのに伴い、回向院(分院)持所が刑死者埋葬場として弾左衛門に譲られている。
 こうして、先代の在職期間と合わせた通算52年は長吏頭・矢野弾左衛門家にとっては権勢と繁栄の基礎を築いた半世紀だったと言える。とはいえ、あくまでその身分は一般人との交際を禁じられた不可触民のえたであり、公式役職名としては「えた(穢多)頭」と呼ばれ続ける。