歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

弾左衛門矢野氏列記(連載第2回)

一 弾左衛門矢野集房(?~1617年)

 

  弾左衛門初代となる矢野集房(または集方)は、江戸幕府開祖・徳川家康と同時代をほぼ並行的に生きた人物であるが、その実像は弾左衛門歴代の中で最も不確かである。その点、徳川=松平氏始祖とされる松平親氏と同様に半ば伝説化された人物であると言える。
 初代集房と思しき人物が歴史に最初に顔を垣間見せるのは、家康が豊臣氏に敗北した北条氏に代わって関東に入部してきた天正十八年(1590年)のことである。この時、家康は、それまで北条氏配下で最下層民の支配者(長吏頭)を任されていた小田原太郎左衛門を江戸在の弾左衛門に取って替えたとされる。
 その経緯は、弾左衛門家の家伝によれば、弾左衛門初代が江戸へ向かう家康と道中の府中で面談し、源頼朝以来の由緒を示して、関東の長吏頭を委ねられたという。しかし、源頼朝以来の由緒は史実として疑わしいうえ、家康が見ず知らずのえた身分の者と道中で直談判に応じるとは思えず、家伝の潤色であろう。
 しかし、実在の長吏頭であった小田原太郎左衛門は旧北条氏の手の者であり、家康にとっては信用し切れない人物であったから、江戸を首府と見定めた家康としては、治安維持の鍵となる下層民の統制のため、江戸在住で従前は太郎左衛門配下にあったと見られる矢野氏を改めて関東の長吏頭に据えたことは十分に理解できる。
 当時、矢野氏は刑場のあった現在の日本橋近辺(通称尼店[あまだな])に居住し、主として刑の執行役と灯心の販売で生計を立てていたとされるが、江戸入りした家康は早速に刑場を現台東区の鳥越(及び現中央区内の元材木町)に移設したのに伴い、矢野家にも鳥越への移転を命じた。おそらく家康はこの刑場移設に際して、刑の執行役をしていた私称矢野氏の存在を知ったとも考えられる。
 続いて、より明瞭に弾左衛門初代が顔を出すのは、10年後、関ヶ原の戦いに際して、弾左衛門が首実検に召集されて敵方の首級を多数預かった際に、家康から記録印(割符)を授かったという逸話においてである。その印には、集房の名が刻まされていたとされる。
 この雅号のような名前は私称ではなく、下賜されたものと考えられるので、矢野氏は関ヶ原での首級預かりの任務で家康から高い評価を受けたものと見られる。これが、矢野氏が関東の新たな長吏頭としての地位を認められる実質的な契機となった出来事かもしれない。
 ちなみに弾左衛門は個人の名前でなく、刑罰・弾劾に関わる役目を暗示する職名を兼ねた名跡であるので、私称矢野氏が弾左衛門の名乗りとその襲名・世襲を許されたのも、この印を下賜されて以降のことではないかとも推測される。
 とはいえ、この後、江戸開幕以降の初代弾左衛門集房の具体的な事績は明らかでない。家伝等によれば、慶長九年(1604年)に、鹿皮を江戸から小田原に輸送するに際して、伝馬役を授かったとされるくらいである。
 家康時代は幕府の制度自体がまだ間に合わせの暫定的なものであり、庄屋仕立てと揶揄されるほど簡素なものであったから、末端の制度となる弾左衛門役所などは全く未整備であったと考えられるが、家康の後ろ盾を得たことで、弾左衛門の長吏頭としての威勢は強化されたであろう。
 集房は家康死没の翌年に自らも没しているが、以後、子孫は幕末まで養子を含めて必ず「集」で始まる二文字の名前(諱)を持つことが慣例となる。これは、えた身分にあった者としては異例であり、弾左衛門矢野氏は実質的に見てえたを超えた特例的な世襲身分にあったとも言えるところである。