歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

弾左衛門矢野氏列記(連載第5回)

五 矢野弾左衛門集村(1698年‐1758年)

 
 4代目弾左衛門集久が死去した後、公式には孫の集村(幼名・浅之介)がわずか12歳で襲名したことになっているが、浅之介には父・吉次郎がいた。吉次郎は正式の襲名前に死亡したものと見られているが、死亡年も法名も不詳である。あたかも記録から抹消されたような扱いである。
 その背景として、単に正式の襲名前に病死したと見るのが素直ではあるが、あるいは自害など公表を憚る死亡を遂げていたり、死亡していないとすれば不行跡、病弱等による廃嫡といった裏事情も想定できるかもしれない。
 いずれにせよ、弾左衛門江戸町奉行から襲名が正式に認証されて就任するという慣例からすれば、正式に襲名していない吉次郎を5代目に数えることはできないはずであるが、近年の通説は彼を5代目とし、集村を6代目とみなしている。しかし、ここでは両論併記の形で集村を5代目(または6代目)と表記し、以後の各歴代についても同様とする。―正式の襲名前でなく、その直後に死亡した証拠史料が新たに発見されれば別である。

 
 さて、祖父から一代飛び越えた代襲相続の形で弾左衛門を襲名した集村は就任時わずか12歳の子どもであったから、当然当初は職務代行者を必要とした。やがて若き弾左衛門として自ら職務を行うようになった集村が直面したのは、配下にあるひにん頭・車善七との抗争であった。
 車善七は江戸に数人いたひにん頭の中でも最有力で、弾左衛門と同様、江戸時代最初期にひにん頭となって、代々車善七を襲名する慣例であった。苗字を名乗らないひにん頭の中で唯一車という希少姓を名乗っていた事情は不明である。
 一説には、車善七の祖は常陸戦国大名佐竹氏の家老だった車義照(別名・斯忠[つなただ])とされる。斯忠は関ヶ原の戦いに際して反徳川派に立ち、佐竹氏が西軍寄りの曖昧な態度をとることを主導したが、戦後処理で佐竹氏が長年の本貫常陸から出羽に移封させられたことを不満として反乱を起こすも失敗、処刑された。
 その後、義照の遺子・善七郎が父の仇を討つべく江戸城に潜入し、二度にわたり家康暗殺を図るも失敗、同情した家康からひにんに身を落とすことを条件に赦免され、初代の車善七となったとする逸話がある。
 あまりに劇的なため歴史家はこれをフィクションとみなすが、この逸話の出典は高崎藩の郡吏・大石久敬[ひさたか]の農政書『地方凡例録』である。大石は学者肌で同書も定評ある地方書であるから、車善七の由来説も完全なフィクションとは断じ難い。
 実際、車善七は誇り高く、何かとひにんの大量動員を命じてくる弾左衛門の支配から脱しようと訴訟を起こしてまで抗争したことからしても、武家出自という可能性もなくはないのではなかろうか。
 その車善七と矢野弾左衛門の抗争は、享保四年から九年にかけて展開された。時は8代将軍吉宗の享保改革の渦中で、南町奉行大岡忠相が名声を得ていた時代である。抗争の詳しい経緯を書き記すことはしないが、訴訟で示された幕府の立場は、弾左衛門が動員できるひにんの人数を制限したうえで、車善七の弾左衛門支配離脱は認めないというものであった。
 先代の時代に当道座や役者の弾左衛門支配離脱は認めた幕府であったが、身分秩序維持のため、地方長吏(えた)については認めなかったように、ひにんについても弾左衛門支配離脱を認めることはしなかったのである。
 しかし、車善七側はこれを不服とし、慣例の義務的儀礼であった弾左衛門への年始挨拶を拒否したことで、弾左衛門から逆提訴されるも敗訴、罰として配下の組頭三人が処刑されるという事態となった。
 この後、ひにんたちは町で火付けを繰り返すことで抵抗を示した。このひにんの火付けは百姓一揆、打ちこわしと並ぶ江戸時代の三大民衆反乱の一つと言えるもので、享保改革で江戸の火災対策が整備される一つの契機ともなった。
 しかし、享保九年(1724年)、ひにん総勢226人を遠島刑とする大量処罰判決が言い渡され、ひにんの抵抗はひとまず収束した。ちなみに、言わば検察役を担った弾左衛門の起案に基づき、この判決を下したのは大岡であった。
 この車善七抗争を乗り切った後の集村は大過なく職務に専念したようであり、寛延元年(1748年)には跡を息子の勝之助に譲って隠居している。弾左衛門が生前隠居するのはこれが初例であるが、集村が生前隠居を選んだのは、自身の襲名が幼年での祖父からの代襲という異例の形となり、困難を招いたことを反省してのことかもしれない。