歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

弾左衛門矢野氏列記(連載最終回)

九 (続)矢野弾左衛門集保=弾直樹

 
 最後の弾左衛門集保=弾直樹は幕末・明治中期まで生きたことで歴代では最も事績が明らかで、肖像写真が残されている唯一の弾左衛門であるという点においても、最後の将軍・徳川慶喜に重なるところがある。
 前回も触れたように、集保は幕末に佐幕派として自ら状況に関与を試みるのであるが、その発端は第二次長州征伐への参加を申し出たことであった。この時、彼は初代の集房が関ヶ原で果たした遺体処理などの任務を名目に、管轄下の関八州から集めた500人の長吏隊を結成して幕府に差し出したのである。
 集保は自らの直接参加を申し出るほど積極的であったが、これは却下された。当時、配下のひにん頭・車千代吉―先代の父・善七も集司の時代に処刑されたためか、善七を未襲名―、による弾左衛門からの独立騒動がまたもや起きていたことも影響したようである。 
 そのうえ、理由は不明ながら、長吏隊は大坂で足止めされ、荷役に従事させられるにとどまった。これを遺憾とした集保はさらに戦闘部隊としての長吏銃隊の結成を構想したが、この頃、幕府奥医師蘭方医・松本良順の仲介で身分引上げの話が舞い込むと、これに乗った集保は幕府に請願を開始した。
 良順は幕府軍医を務めるなど、幕府に顔が効くほか、近代的病院建設の野心もあり、その資金源として弾左衛門に着眼していたようで、後に実際、弾左衛門に身分引上げ料として三千両を出させてもいる。
 この請願運動は功を奏し、慶応四年(1868年)、長州征伐への貢献を認めた幕府は弾左衛門を「平人」として初めて認め、以後、通称としてのみ認められてきた弾内記の公称許可、奉行所における板縁上がりの許可など、士分に準じた処遇が認められるに至ったのである。
 こうした被差別身分からの脱却は弾左衛門個人のみならず、弾左衛門制度における歴史的な転換点であった。しかし、それは同時に、幕藩制度そのものの崩壊の始まりでもあった。弾左衛門の長吏銃隊は練兵場も決まっていたが、幕府軍鳥羽伏見の戦いで官軍に敗北したことで幻に終わった。
 その代わりというわけでもないが、良順の手配で、長期の押込処分を解かれた先代の弾左衛門集司が新選組のいわゆる甲陽鎮撫隊に長吏銃隊を率いて参加することになった。ちなみに、この時、集司はいち早く近代的な弾譲[ゆずる]名に改名しているが、これは意に反して職を譲らされた悔しさをにじませた改名だろうか。
 しかし、甲陽鎮撫隊による甲州勝沼の戦いも惨敗に終わり、弾譲の長吏隊は敗走した。譲は明治五年(1872年)まで存命するが、最晩年の消息については情報がない。集保の養父として、弾左衛門屋敷に隠居者として居住はしていたかもしれない。

 
 最終的に幕府が倒れると、幕府機構最末端の弾左衛門役所も廃止となる。そこで歴代弾左衛門列記もこれにて終了のはずであるが、明治政府はまだ臨時政府でしかなく、旧制を一気に廃絶することはできなかったことから、しばらくは弾左衛門も旧来の任務を引き継ぐことになる。
 この間、集保は新政府とコンタクトを取って要領よく立ち回り、町奉行所を臨時に改組した市政裁判所付きという下級吏員の職を得た。この地位は後に東京府庁付きと変わるが、任務としては従来と大差なかった。
 実際、この間、集保は明治天皇御東幸(東京入り)の警備や不穏分子探索などを仰せつかったほか、幕末騒動に絡んで処刑した車千代吉の遺子に車善七を襲名させるなど、弾左衛門役所はまだ非公式に機能していた。
 同時に、彼は新政府軍で高い需要の生じる軍靴に目を付け、兵部省と交渉して軍靴製造の許可を取り付け、近代的な実業に乗り出していく。皮革ならまさに長吏の歴史的な業務であったからである。ただし、西洋靴の製造技術はないため、アメリカ人をお雇い外国人として指導を仰いだ。
 さらに、弾左衛門集保から近代的に改名した弾直樹は民部省民部省が大蔵省に吸収されると大蔵省御用掛として中央省庁への進出を果たす。ここで彼が狙ったのは、被差別身分の廃止である。民間でなく、官界にいながら自身主導での解放運動を試みたとも言える。
 直樹は幕末から、身分解放は一挙に断行せず、様々にある被差別身分を段階的に廃止にもっていくという構想を抱き、幕府に建議したこともあったが、維新後もこの考えは変えず、明治政府に同趣旨の建議をより具体的に行っている。
 彼の念頭にあったのは、一挙解放では従来被差別身分が担っていた業務の停滞や被差別身分と同格となることに対する近隣農民層の反発が生じることへの懸念、加えて、被差別身分の総帥の地位にあった弾家の権益保持であったと見られている。
 しかし、直樹の考えは大久保利通を実質的な首班とする明治政府の採るところとはならなかった。政府は内実はともあれ一挙に身分解放を図ることとし、明治四年(1871年)、賤称廃止令(解放令)を発する。こうした政策の意図については諸説あるが、被差別身分に代償として保障されていた免税土地の廃止に加え、文明開化をアピールするという対外政策もあったとされている。
 この政策は直樹の懸念どおり、農民による解放令反対一揆を各地に巻き起こしたほか、弾家にも直接跳ね返り、まだ残されていた灯心販売の独占、配下からの収税をはじめとする経済的諸特権すべての廃止を結果した。これは当然にも弾家の経済的基盤を揺るがし、始めたばかりの軍靴製造業にも響いた。
 結局、直樹が所有していた製靴工場も明治七年には三越手代の北岡文兵衛の手に渡ることとなり、会社は弾北岡組となった。弾の名は社名に残されたが、直樹に経営権はなく、名目的な存在であった。
 こうして、弾直樹は政府からも実業界からも去り、隠居者として明治二十二年(1889年)まで余生を過ごした。跡は息子の祐之助(1857年‐1945年)が継ぎ、弾北岡組にも参加したが、亀岡町と改名されていた浅草新町の屋敷は明治四十二年(1909年)に小学校建設地として明け渡し、転居したことで、弾左衛門の痕跡は東京から消滅することとなった。
 ちなみに、その後、弾北岡組は東京製皮株式会社となり、現在は皮革よりゼラチン・コラーゲン製品に軸を置く上場株式会社ニッピの数ある前身会社の一つとして間接的に継承されている。こうした現況を弾直樹が知れば、自身の敷いた道の正しさに満足するかもしれない。
 一方、直樹が一挙解放に反対したひにん身分が速やかに一般公民に同化されたのとは対照的に、主に各地のえた村を前身とする被差別部落が近代以降も残存し、現在ではインターネットという直樹が想像もしなかった現代的手段を通じて差別が現象している事実を知れば、深く遺憾とするに違いない。