歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

外様小藩政治経済史(連載第5回)

一 苗木藩の場合

(4)幕末廃藩
 幕末動乱は苗木藩のような最小藩にも押し寄せてきた。特に最後の藩主となった12代遠山友禄は二度にわたり若年寄を務めるなど、譜代格として歴代藩主中最も幕府で重用された。幕末動乱の中で、外様小藩主にも出世の道が拓かれたことを意味するが、反面、藩の出費がいっそう増大し、慢性的財政難に拍車をかけることとなった。
 友禄は当初、若年寄として正統的な佐幕派に属し、生麦事件の対英陳謝使や長州征伐への参陣などの職務を忠実にこなしていたが、倒幕運動が本格化すると、勤皇派に傾いていた家中の説得により、慶応三年、勤皇派に帰順、出兵した。
 明治維新後、友禄は他藩主と同様、版籍奉還により藩知事となる。藩知事としての最初の仕事は膨大な債務の整理であった。その経緯は(2)でも先行して述べたとおり、藩士全員の一斉帰農・家禄削減という過酷な内容であったことから、元藩士らはたちまち困窮した。
 そのうえに、家禄奉還・帰農を急いだあまり、元藩士の身分が平民(農民)に転換されていたことから、廃藩置県後に旧士族としての援護を受けられないという問題も、かれらの困窮に拍車をかけていた。
 苗木藩はこうした債務整理を全国諸藩に先駆けて断行した一方、明治維新政府の廃仏毀釈政策にもいち早く呼応し、初代遠山友政が建立した藩主家菩提寺である雲林寺を含む藩内全仏教寺院の廃寺という徹底した廃仏を断行したのである。
 この廃仏策を主導したのは、下級藩士出自の平田国学復古神道家・青山景通であった。景通は平田篤胤養子の平田銕胤門下生であり、銕胤から破門された鈴木重胤を暗殺するなど、過激な一面があった。一方、債務整理策のほうは景通の息子で維新後に家老格の大参事となった青山直通が主導した。
 青山氏は本来ならは藩政を主導できるような身分ではなかったが、明治維新渦中で下克上的に台頭して、維新適応化策を担ったのである。この青山親子による物心両面での過激な維新適応化策は、元藩士らの強い反発を招くこととなった。
 その結果、明治三年には元筆頭家老らが大規模な反青山のクーデターを謀ったが、未然に摘発検挙された。しかし、その後も明治九年に青山邸放火による直通暗殺未遂事件が起き、さらに明治二十四年に至ってもなお襲撃事件が起きるなど元藩士らの怨嗟は長く続いたのである。