歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

もう一つの中国史(連載第16回)

五 遊牧民族の時代Ⅱ

 

(1)突厥沙陀部の短い覇
 鮮卑系の唐が安史の乱以降衰退し、黄巣の乱の渦中で907年に滅亡すると、中国は再び五代十国と呼ばれる内戦状態に突入する。五代最初の後梁漢民族系だが、黄巣反乱軍武将から寝返った朱全忠が創始した同国は正統政権として認知されず、早期に没落した。
 その後梁を打倒したのが、後唐であった。後唐突厥沙陀部の軍閥によって建てられた王朝である。突厥はテュルク系遊牧諸民族の始祖集団であり、匈奴支配下から自立し、6世紀には現モンゴル国のハンガイ山脈に比定されるウテュケン山を本拠に大帝国を築くが、間もなく東西に分裂した。
 その西突厥から出た沙陀部は安史の乱後、唐に帰属し、唐朝軍閥として地位を確立したうえ、唐末混乱期に反乱軍の鎮圧で功績を上げた。唐の後継者を自認した後唐は一時、華北を平定し、統一王朝化も窺うが、第二代で名君と謳われた明宗の短い治世の後は衰退し、滅亡した。
 明宗の女婿であった石敬瑭―沙陀部に同化したイラン系のソグド人とする説あり―によって建てられた後継の後晋後漢、さらに十国の一つに数えられる北漢はいずれも沙陀部系国家であったが、長続きすることはなかった。
 こうして唐末に台頭した沙陀部が覇権を確立できなかった要因としては、養子相続に依存する慣習が一族内紛を招く脆弱な体制を克服できなかったこと、同時期に華北では契丹族が台頭し、軍事的に優勢な契丹に押さえ込まれたことが挙げられる。
 その契丹族鮮卑と同様に東胡から派生したとされる遊牧民族で、後に台頭するモンゴル族とも同系と見られる民族である。その活動は南北朝時代の5世紀頃から活発になるが、統一国家を建てるのは916年、耶律氏の長・耶律阿保機がそれまでの八部族連合を統合して契丹国を樹立したのが最初である。
 契丹国は第二代耶律堯骨[やりつぎょうこつ]の時、後唐の内紛に介入してその支配下にあった華北の燕雲十六州の割譲を受け、領土拡張に成功した。その後、後唐を継いだ後晋をも滅ぼした契丹華北の覇権を得て、国号も漢風に遼とした。
 しかし、遼もかつての隋唐のように完全な覇権を握ることはできず、五代十国の混乱は、五代国家最終にして漢民族系・後周の軍閥から出た趙匡胤によって創始された宋によって、ひとまず止揚されるのである。趙匡胤も父が後唐の近衛軍人出身であり、突厥の血を引くとする説もあるが、そうだとしても漢化して久しい一族出身であろう。