歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

シリーズ:失われた権門勢家(連載第5回)

五 ペルシャ皇室ササン家


(1)出自
 皇室名称ササンは皇室家祖と位置づけられる人物であるが、その実像や系譜について確かな情報はない。比較的有力なのは、古代ペルシャ旧都ペルセポリス近郊イスタフルのゾロアスター教アナーヒタ神殿の神官だったとする伝承である。といってもアナーヒタは主神ではなく、水を司る中級神の女神であるため、必ずしも最有力神殿ではなく、地方の中級神殿と考えられる。いずれにせよ、ササンの孫に当たるとされるアルダシール1世が輩出するまでのササン家は、地方の神官豪族に過ぎなかった。


(2)事績
 アルダシール1世の父パーパクは神官としての権威をもとにイスタフルの領主となるが、当時は同じイラン系ながら遊牧民のパルティア王国が支配的であり、ササン家が王朝を形成するのはパーパクの息子とされるアルダシール1世が兄シャープールとの権力闘争に勝利したうえ、パルティアを倒し、西暦224年以降、ペルシャを統一してからである。以後、651年に滅亡するまで、ササン朝はアケメネス朝以来のペルシャ帝国を再興し、アケメネス朝を凌駕するほどのペルシャ文明の全盛期を築いた。


(3)断絶経緯
 最後の皇帝となる第29代ヤズデギルド3世の治下、領内のティグリス‐ユーフラテス河大氾濫による洪水被害で農業生産力が低下する中、勃興してきたイスラーム勢力の攻勢に対しても防衛できず、642年にイスラーム軍に大敗。ヤズデギルド3世は各地を転々とする中、651年に現在はトルクメニスタンのメルヴで地元総督の裏切りにあって暗殺され、ササン朝は滅亡した。
 ただし、ヤズデギルド3世の皇子ペーローズ3世は中国の唐に亡命し、唐朝の皇帝・高宗から現アフガニスタン領内で波斯(ペルシア)都督に任ぜられ、後に右武衛将軍や左威衛将軍の称号も得て、事実上の亡命政府の長として引き続きアラブ・イスラーム勢力との闘争を継続したため、家系上は、唐のペルシャ系将軍家として持続する。
 ペーローズの子息ナルシエフは李姓を名乗り、唐の将軍として父の仕事を継承したが、707年に長安で死去、その子女らは中国人有力者と通婚し、子孫は実質上漢族化した見られる。また、710年に甥ペーローズととも唐に亡命したヤズデギルド3世のもう一人の皇子バハラム7世が死去した後、その子息ホスローが対イスラーム闘争を継ぐも、成功せず、以後ササン家の動静情報は絶える。


(4)伝/称後裔氏族等
 中国内にはもはやササン朝末裔とされる家系は存在しないが、イスラーム側にはイスラーム勢力に捕らわれたヤズデギルド3世の皇女(複数)が奴隷化されたうえ、アラブ人有力者の妻となったとする伝承がある。
 中でも、イスラームシーア派第3代イマームであるフサイン・イブン・アリーの妻シャフルバヌーはヤズデギルド3世の皇女とする伝承があり、これが真実とすれば、シャフルバヌーが産んだ第4代イマームのアリー・ザイヌルアービディーン以後、十二イマーム派の歴代イマームはササン家の血を引くことになる。