歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

もう一つの中国史(連載第12回)

四 西方諸民族の固有史

 

(3)チベット系諸民族の興隆
 西域の手前には、古くからチベット系諸民族が展開していた。中国語とチベット語言語学上包括してシナ・チベット語族を形成することからも、漢民族チベット民族は言語学的に共通祖語を持つ可能性もある近縁な民族同士である。
 とはいえ、両民族は早くに片や農耕民、片や遊牧民として分岐したと見られる。漢民族側では、西方のチベット系諸民族を「西戎」と総称し、蛮族視した。前8世紀に周王朝が崩壊したきっかけは、西から犬戎と呼ばれる勢力に侵攻されたことにあったが、この犬戎もチベット系と見られる。
 ちなみに、周王朝崩壊後の長い分裂・内乱期(春秋・戦国時代)を経て統一王朝を建てる秦は戦国七大強国(七雄)の中でも最も西端に本拠を持ち、当初は文化的・習俗的にも中原の漢民族系諸国とは異質だったと見られており、馬の飼育者だったとされる王家始祖の非子を含め、その国民にはチベット系民族もしくは漢民族との混血系が含まれていたと見る余地がある。 
 漢代になると、現在は四川省少数民族チャン族の祖とされる羌族や氐族といったチベット遊牧民勢力の活動が記録される。特に羌族は軍事的にも強力で、漢族と合従連衡し、後漢末から三国時代の動乱にも関与した。
 羌族と氐族はともに五胡六国時代には五胡の一角を成し、いくつかの国家を形成した。中でも氐族系前秦は三代皇帝苻堅の時、華北を統一し、さらに南下して全国統一も窺ったが、江南の東晋に大敗し、滅亡に向かった。
 しかし、チベット民族にとって歴史的な画期となるのは7世紀初頭におけるソンツェン・ガンポによるチベット高原の統一である。彼は元来一地域王権の王に過ぎなかったが、近隣部族を征服してラサを首都とする統一王朝を建てた。彼を実質的な始祖とする吐蕃王国は以後、9世紀後半まで統一王朝として存続していく。
 ソンツェン・ガンポは唐の皇女・文成公主(元は早世した息子の妃)を妃に迎えて唐から冊封を受けるも、その後の両国は支配領域をめぐって勢力を張り合った。しかし安史の乱で唐が混乱し始めると、吐蕃が優位に立つようになり、強力なティソン・デツェン王時代の763年には首都長安を占領し、唐の皇帝擁立にも干渉した。その勢力は西域にも及び、シルクロード交易を掌握するまでになった。
 こうした力関係の変化を明瞭に確証するのが、821年に吐蕃‐唐の間で成立した長慶会盟である。現在まで石碑に刻まれた外交文書に残されたこの条約は、吐蕃と唐を対等な国家として扱いつつ、両国の支配領域を確定している。
 しかし、こうして吐蕃が隆盛を誇ったのも束の間、9世紀中頃から吐蕃支配層の内紛が激しくなり、国力の低下が進んだ。唐が反転攻勢に出て、吐蕃に押さえられた旧領土の奪回作戦を進める中、民衆蜂起も重なり、吐蕃は877年に滅亡した。
 吐蕃の時代は唐の時代ともほぼ重なるが、後に述べるように、北朝の流れを汲む唐も非漢民族鮮卑族が漢化した国であり(異説あり)、この時代の中国大陸はともに非中漢民族が支配する二つの大国がせめぎ合う場であったと言える。