歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第20回)

二十 李昰応・興宣大院君(1820年‐1898年)

 勢道政治に呑まれ、全く権能を発揮できなかった25代哲宗が1863年に没すると、転機が訪れた。まだ存命していた24代憲宗生母の神貞王后が動き、26代国王として、全くの王室傍流にあった李昰応の次男・高宗を即位させる。
 李昰応は22代正祖の異母弟の養子の四男という王室の遠縁で、血統上は16代仁祖の子孫に当たるが、すでに王族としての待遇はされていない一族の出自であった。従って、李昰応自ら王位に就くことはできず、その次男を神貞王后の養子とした上で即位させるという変則的な手法が採られたのだった。
 李昰応の一族は先述したように、王族待遇を受けていなかったため、青年時代の彼はならず者と交際するなどの無頼生活を送っていたが、実のところ、政治的な野心は隠し持っていたようで、さしあたり神貞王后に接近し、その評価を勝ち取ったことが、立身出世の契機となった。
 李昰応には長男もあったが、年少の次男に白羽の矢が立ったのは、そのほうが神貞王后‐李昰応ラインで操作しやすいと踏んだからであろう。この新体制では、李昰応が国王実父・大院君の立場で政治の実権を握った。
 実権を掌握した大院君・李昰応は正式の国王ではないものの、彼が実権者だった時期には、事実上国王を凌ぐ実質的な君主であった。彼の新体制には、改革的な要素と保守的な要素の二面性があった。
 改革的要素は主として内政面で、従来弊害著しかった勢道政治の一掃を図ったことである。最高機関である議政府を立て直し、勢道勢力以外からの人材登用を行なったほか、三政の紊乱を正すため、法典の整備や監察制度の強化なども断行した。
 他方で、王族を要職に就けて王室の権力を強化したほか、改めて国教・国学としての儒教を重視し、キリスト教を弾圧するなどの保守的な一面があった。
 しかし、大院君政治の保守的な一面が最も色濃く現れたのは、対外政策であった。この頃になると、ロシアやフランス、アメリカなど列強が朝鮮に開国を迫るようになってきたが、李昰応はこれをことごとく排撃する強硬方針で臨み、たびたび洋擾事件を引き起こした。
 李昰応の失敗は、勢道勢力排除の目的から、息子高宗の妃として、自身の正室の出身でもあった傍流門閥・驪興閔氏出身の閔妃を立てたことであった。彼女は野心家であり、次第に大院君と敵対するようになる。
 しかし、専制君主のように振舞う大院君に対しては、王室家長的な立場の神貞王后からも批判を受けるに至り、1873年、ついに大院君弾劾書が提出され、大院君は失権することとなった。
 代わって実権を握ったのは、高宗ではなく、閔妃であった。しかし、闘争的な李昰応の政治生命はこれで尽きることなく、ここからさらに二度の復権を果たすのである。
 一度目の復権は、1882年、壬午軍乱の時である。この政変は、閔妃体制が導入した新式軍隊に不満を持つ旧式軍隊の軍人らが主導したクーデター事件であったが、この際、大院君が担ぎ出される形で復権したのである。
 しかし、第二次大院君政権は清と結託した閔妃側の策略によって失敗に終わり、大院君は清国に連行、幽閉されてしまう。しかし、大院君はなおも復権を画策し、清から帰国すると、新興宗教東学党に接近するという奇策に出る。
 1894年には東学党を主力とする甲午農民戦争を利用しつつ、閔妃と険悪化していた明治日本にも接近し、日本を後ろ盾に、二度目の復権を果たすのである。しかし、これは日本の傀儡に近い政権であり、たちまち日本との不和に陥り、短期間で失権させられた。
 すでに70歳を越えていた李昰応はなおも復権に執着し、ついには改めて日本と結託し、閔妃暗殺計画に加担することになる。彼は閔妃を排除して、孫の永宣君を新国王に擁立する計略を練っていたのだった。こうして閔妃暗殺は1895年、実際に起きたが(乙未事変)、直後に親露派の対抗クーデターが起き、李昰応の計略は砕かれた。
 乙未事変を機に、従来から不和だった高宗とも決裂、以後の李昰応は完全に政治の表舞台から退き、98年、その波乱に満ちた長い生涯を閉じた。彼は生涯正式の国王とはならなかったが、孫の純宗の時、国王に準じて大院王を追号されている。
 李昰応は、政治的に無能な息子の高宗に代わり、衰退の一途だった朝鮮王朝を一時的に建て直し、延命しようとしたが、対外政策が保守的に過ぎたことや、晩年は野心的な嫁の閔妃との権力闘争に明け暮れたことで、その延命努力は相当に減殺されてしまったと言える。


§17 宗義達(1847年‐1902年)

 宗義達〔よしあきら〕は、前回も見たように、当初世子に決定されていながら、異母兄との家督継承争いに巻き込まれ、一度廃嫡された後、最終的に世子として返り咲くという異例の登位を経験している。また、父が親長州派・義党の圧力で隠居に追い込まれた後、若くして継承した経緯からも、藩政は義党に握られた。
 これに対して、反義党派は佐幕的な俗論党を結成して対抗し、幕末の対馬藩政は若い藩主の下、倒幕派佐幕派の二大派閥に分裂し、揺れ動いたのである。そうした中、第一次長州征伐で長州藩が幕府に敗北したことを契機に俗論党が決起し、家老大浦和礼に率いられた義党を大量検挙・処刑するという政変を起こした。俗論党のリーダーで、義達の伯父でもあった勝井員周の名を取り、勝井騒動と呼ばれるこの政変は義党の巻き返しにより混沌を極めた。
 義達はここでようやく派閥対立の解消に乗り出し、まず自身の後見人でもあった勝井を討伐したうえ、義党の新指導者であった平田達弘をも斬首し、両派の内紛を鎮圧した。そうした情勢下、戊辰戦争が勃発すると、義達は新政府側に立って親征するが、大坂まで進軍したところで終戦となった。
 明治維新後、義達改め重正は、版籍奉還により対馬府中藩主を返上し、改めて厳原藩知事に任命されたことで、最後の対馬藩主となる。明治最初期の重正に与えられた役割は、明治政府と朝鮮王朝との外交窓口となることであった。旧対馬藩と朝鮮の歴史的な通商関係が考慮されてのことである。
 しかし、これも廃藩置県により重正が藩知事を免官されると、国交交渉も新設されたばかりの外務省に移管され、重正は外務省ナンバー4の外務大丞に任ぜられた。近代外交官への転進である。しかし、時の朝鮮王朝は保守的な大院君が実権を持ち、旧来の対馬藩外交使節以外による国交交渉を拒否した。
 外務省を通じた近代外交を基本方針とする明治政府はこれに応じず、大院君の失権まで対朝鮮外交は閉塞を余儀なくされた。二度にわたり外務大丞を務めた義達も充分な役割を果たせないまま、外務省を去ることになった。重正は後に伯爵に叙せられるも、明治政府で要職に就くことはなく、20世紀をまたいで没した。