歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(11)

[E:three] 社会主義革命と内戦

[E:night]内戦の長期化
 1978年の社会主義革命以前、アフガニスタン史上近代主義的な大改革は王政時代のアマヌッラー国王による改革、共和革命後のダウード政権による改革と二度あったが、いずれもイスラーム保守層からの強い反発・反乱を招いている。PDPA社会主義政権もその例に漏れなかった。
 しかし、社会主義政権はさらに踏み込み、地主階級の部族長に所有された封建的な大土地制度にメスを入れ、大土地の無償接収と農民への再分配という農地改革を性急に断行したことで、部族長勢力の虎の尾を踏むことになった。
 歴史的に見れば、西洋に遅れて19世紀から近代化が進んでいたロシアでも10月革命は時期尚早であり、そのことが以後のロシア史にも影を落としていくが、20世紀後半を過ぎてもまだ中世的な部族主義が地方では克服されていなかったアフガニスタンではなおさらのことであった。
 反革命派の蜂起は革命直後から始まり、革命翌年の79年には全国に拡大し始めていたが、同年末のソ連軍侵攻はこうした反革命蜂起に反ソ抵抗運動の性格を与え、続く80年代をほぼ内戦一色に染めてしまった。
 反革命武装組織はムジャーヒディーン(聖戦遂行者)と総称されたが、最後まで統一戦線にまとまることはなく、主として民族ごとに組織され、戦闘は軍閥化した部族指導者が指揮して、ばらばらに行なわれた。戦闘に参加した組織は代表的なものだけでも優に10を越えるありさまであった。
 このようにばらばらな半封建的ゲリラ組織を、当時アメリカと並ぶ軍事大国となっていたソ連が粉砕するのはたやすいことのはずであったが、そうはならず、想定外の長期戦となったことにはいくつか理由があった。
 一つは、アフガニスタン部族勢力が山岳ゲリラ戦を得意としたことである。これは、19世紀にアフガニスタンと交戦した英国が敗北したのと同様の理由であった。
 もう一つは、西アジアへのソ連の覇権拡大を懸念したアメリカがムジャーヒディーンに対して、軍事援助を行なったことである。特に81年にソ連イデオロギー上も厳しく対峙するレーガン共和党政権が発足すると、ムジャーヒディーン支援は本格化した。
 加えて、アフガニスタンとは真逆に、アフガン革命の前年77年にイスラーム保守的な反共親米の軍事独裁政権が樹立されていた隣国パキスタンも、軍諜報機関を通じてムジャーヒディーンを支援した。
 さらにアフガニスタン反革命戦争は反イスラーム無神論勢力(PDPA政権プラスソ連)からの解放戦争として宣伝されたため、ムジャーヒディーンには中東アラブ世界からも義勇兵が参加するようになった。その中には、後にイスラーム過激派組織アル・カーイダに結集するアラブ人勢力もあった。
 こうして、ソ連軍は拡大する反革命勢力を掃討することに手間取り、長期化したアフガニスタン内戦は、冷戦期における米ソの典型的な代理戦争の一例となっていくのである。特に最大で10万人余りの軍を投入したソ連にとって、アフガニスタンアメリカにとってのベトナムとなった。