歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第36回)

第八章 「蘇我朝」の五十年

(2)昆支朝の斜陽化

文人大王・敏達
 欽明=獲加多支鹵大王は40年に及ぶ長期治世の後、571年に死去した。後継者は渟中倉太珠敷皇子[ぬなくらのふとたましきのみこ]で、正史上の第30代敏達天皇である(当時、天皇号はまだなかったので、以下では便宜上「敏達大王」または単に「敏達」と表記する)。
 敏達大王は『書紀』の人物評にも「文章や史学を愛した」とあるように、武人だった父とは異なり、文人タイプであった。このような新しいタイプの大王の出現も、ようやく父王代に始まった文字記録の普及と大いに関係しているであろう。
 ただ、敏達は実兄でヤマトタケルのモデルとも推定される本来の次期大王・箭田珠勝大兄皇子[やたのたまかつのおおえのみこ]が早世したことを受けて後継者となったもので、敏達紀によると、父・欽明は大兄の死去から16年もしてようやく後継指名をしている(欽明紀では2年後の指名だが、ここでは敏達紀の記述に従う)。これは父王が次男の文人的な性格が政治向きかどうか懸念していたことの現れとも見られなくもない。敏達が父王死去から1年近く即位しなかったのも、彼の王位継承が必ずしも既定路線でなかったことを暗示している。
 とはいえ、敏達大王は決して政治的に無能ではなく、その治世では父王の領土拡張政策を継承し、特に国造・伴造制を通じた地方支配の確立に努めたことは間違いない。
 外交的には従来対立的であった高句麗との国交を開始しているが、これは百済が554年の聖王戦死以来、新羅と敵対する反面、長年の宿敵・高句麗と同盟する外交方針の大転換を果たしたことが、百済と同盟する倭の対外関係にも反映されるようになったためであろう。
 一方、文人・敏達が優柔不断さを露呈したのが仏教政策である。仏教はすでに父王の時代に百済から伝来していたが、父・欽明はこの問題の扱いに慎重で、重臣に協議させたところ、受容を主張する蘇我稲目と反対する物部尾輿らが対立したことから、稲目に仏像を預けて試行するよう命じた。すると疫病が流行し、若死する者も多かったので、尾輿らの進言を受けて排仏令を出し、仏像を廃棄させ、稲目が私宅を当てていた寺も焼かせた。
 敏達時代には蘇我氏も570年に死去した稲目に代わって、息子の馬子が大臣として後を継いでいたが、馬子は父以上の崇仏派で、高句麗の僧を師として深く仏法に帰依し、私宅に仏殿を作り、初めて三人の尼僧を養成するなど、仏教の布教にも努めていた。
 これに対して、敏達は自身「仏法を信じない」としながら、馬子には仏教を奨励していたが、物部守屋(尾輿の子)ら排仏派が「先帝時代より疫病が絶えないのは、蘇我氏が仏法を広めたことによる」と奏上するや、排仏令を発し、守屋の指揮の下、仏像・仏殿の焼き打ち、三人の尼への鞭打ち刑などの弾圧が加えられた。
 ところが、敏達自身と守屋が伝染病の疱瘡を発症したところへ、馬子が「自分の病は重く、仏の力を蒙らなければ治癒しない」と奏上すると、今度は馬子一人で仏法を行うことを許可し、三人の尼の身柄も馬子に引き渡したという。
 このように仏教の扱いをめぐり二転三転した挙句に、大王自身も病状が重くなり、死去してしまう(585年)。結局、敏達大王は在位13年と父王の三分の一ほどで亡くなり、仏教問題での優柔不断さが崇仏派と排仏派の対立を激化させ、王朝の将来にも禍根を残す結果となったのである。

謀略家・蘇我馬子
 蘇我馬子は父・稲目の後を受けて敏達大王の治世にデビューしているが、敏達時代には仏教弾圧に見られるように、物部氏ら排仏派に押され気味であった。彼が弾圧にも耐えた敬虔な仏教徒とはとうてい思えない、目的のためには殺人も辞さぬ冷酷な謀略家ぶりを発揮し始めるのは敏達死去後のことである。
 先述したように、敏達は伝染病で急死するが、この時点での王位継承順位第一位は、敏達と正妃・広姫(息長真手王の娘)との間の長男・押坂彦人大兄皇子[おしさかひこひとのおおえのみこ]であった。ところが、敏達死去後わずか一か月で即位したのは彼でなく、欽明と蘇我稲目の娘・堅塩媛との間の長男で、敏達の異母弟に当たる大兄皇子であった。これが第31代用明天皇(以下、便宜上「用明大王」または単に「用明」と表記する)である。
 ここに、四代続いた王位の父子継承は崩れ、異母兄弟継承という異例が生じたのである。しかも、『書紀』は用明の諱を「大兄皇子」とするが、彼は本来いわゆる庶流であるから、これは彼が大王に就いたため『書紀』が事後的に大兄称号を取って付けた名で、本来は「池辺皇子」(いけのべのみこ)であった可能性が高い。というのも、用明の宮を「池辺双槻宮」(いけのべのなみつきのみや)と呼んだとあるからである。
 『書紀』は、この「池辺皇子」について芳しくない記事を載せている。すなわち敏達7年条は敏達の娘・菟道皇女[うじのひめみこ]を伊勢神宮に侍らせたが、池辺皇子に犯されたことが発覚したため、解任したというのである。
 『書紀』はこの池辺皇子の素性を一言もしないが、後の用明と同一視する見解が有力である。すると、用明は皇子時代に姪に当たる伊勢神宮斎王を犯すという不祥事を起こしていたことになる(ただし、当時の観念によると、不倫の“主犯”は女性とみなされていたため、池辺皇子の罪は不問に付されたであろう)。
 このような人物が敏達の後継者となったことの背後には、馬子の介在があったことは確実である。というのも、用明は馬子の甥にも当たるばかりか、『書紀』の人物評に「仏法を信じ、神道を尊んだ」とあるように、神仏折衷主義者であったらしいことは、崇仏派・馬子の立場を強める上で仏法に対する態度が不明な押坂彦人大兄より好都合であったからである。
 しかし、この王位継承には当然、反対派も多かった。その筆頭は王位継承順位第一位ながら外された押坂彦人大兄であるはずだが、なぜかこの人の影は驚くほど薄い。よほど人望がなかったか、病弱であったか、何らかの事情があったのであろうが、一応自分の派閥があったらしいことは、後に馬子と物部守屋の対立が激化した時に、水派宮[みまたのみや]を本拠とする同皇子の中立的な陣営の存在が記されていることからわかる。
 彦人大兄以上に強力な反対派は、蘇我稲目のもう一人の娘・小姉君と欽明との間の三男(別伝では二男)に当たる穴穂部皇子と彼を支持する守屋の派閥であった。穴穂部皇子は自身露骨に王位を狙っており、まず手始めに口実を設けて敏達時代に内外の国政を仕切る宰相格であった三輪君逆[みわのきみさかう]を守屋に命じて殺害させ、権力への第一歩を踏み出した。
 一方、用明は治世2年4月の新嘗祭の日に、流行が続いていたらしい伝染病の疱瘡を発症したことから、群臣らに仏法僧の三宝に帰依したいとして、協議するよう命じた。これをめぐって改めて反対を唱える守屋ら排仏派と大王に協力すべきことを主張する馬子との間で対立が激化、守屋を群臣が陥れようとしているとの噂が流れ、守屋が別宅に閉じこもるなど不穏な情勢となる。
 ところが、間もなく用明の病状は重くなり、死去してしまう(587年)。治世わずか2年足らず、ほとんど何の事績も残さなかった。しかも、二代続けて大王が同じ伝染病で死去する事態である。
 ここで再び後継問題が発生し、いよいよ物部守屋は自ら支持する穴穂部皇子を擁立するためのクーデターを計画するが、謀議が事前に馬子側に漏れたため、馬子は先手を打って穴穂部を暗殺してしまう。
 『書紀』はこの時、穴穂部と共に穴穂部と親しい宅部皇子[やかべのみこ]も暗殺されたとし、注記で宅部皇子は宣化天皇の子であるが詳しくはわからないと記す。「宣化天皇」とは遠く50年以上も前に辛亥の変で殺害された欽明の異母兄・檜隅高田皇子のことであるあるが、造作された宣化紀にも宅部皇子の名は見えず、その実在性は疑わしい。すると、この身元不詳の犠牲者は誰なのであろうか。
 筆者は、押坂彦人大兄皇子その人と見る。彼は用明死去時点でもなお最有力の王位継承権者であったにもかかわらず、用明死去直前の馬子・守屋の衝突の渦中で水派宮に中立派の陣営を置いていたことを示す記事を最後に『書紀』の叙述から忽然と姿を消し、以後死亡記事すら見られないのである。
 ただ、通説は室町時代に出た皇室の系図『本朝皇胤紹運録』によれば彦人の子・舒明天皇(在位629年‐641年)の生年が593年とされることから、父の彦人大兄も同年までは存命していたと想定されるとして、彦人大兄暗殺を否定している。しかし、15世紀に編纂された系図の記述の信憑性に絶対の保証はなく、641年に没した舒明の生年が587年以前であったとしても不都合があるとは考えられない。
 馬子が押坂彦人大兄を暗殺したのは、それまで守屋とは距離を置いているかに見えた彦人大兄が穴穂部皇子暗殺後も存命していると、今度は守屋と結託する恐れがあったためと思われる。そこで、彼は穴穂部暗殺に際して、彦人大兄も予防的に消しておいたのである。そうすることで、守屋の拠り所を奪い、孤立させる狙いもあったであろう。これが、謀略家・馬子の冷酷な打算であった。
 『書紀』で彦人大兄が宅部皇子なる架空人物にすりかわったのは、おそらく『書紀』の作為ではなく、後に馬子が中心となって天皇(大王)記などの史書を編纂した際、最も正統的な王位継承権者を謀殺した自らの反逆行為を隠蔽するために、宅部皇子なる架空人物をでっち上げたためと考えられる。
 さて、有力な穴穂部と押坂彦人大兄の両皇子を一挙に葬り去った馬子は返す刀でいよいよ守屋打倒に挙兵するが、その陣容たるや馬子派の数人の皇子に紀氏、巨勢氏、葛城氏、平群氏など百済系豪族が参加した寄せ集めの軍勢にすぎず、正規軍の参謀総長格で伝統ある物部軍団を配下に持つ守屋に対して勝ち目はなさそうに見えた。
 実際、馬子勢は三度も退却を強いられたが、一人の舎人の奇跡的な活躍により守屋は戦死、物部軍団は総崩れとなり、敗走した。伝統ある物部本宗家のあっけない滅亡である。

法興寺建立と大王暗殺
 最大の難敵・物部氏を打倒し、今や主要な政敵をすべて亡き者にした蘇我馬子は、暗殺した穴穂部皇子実弟で穴穂部とともに自身の甥にも当たり、守屋討伐にも参加した泊瀬部皇子[はつせべのみこ]を大王に擁立する。これが正史上の第32代崇峻天皇である(以下では、便宜上「崇峻大王」または単に「崇峻」という。)
 馬子はこのように反仏教的と評すべき血塗られた謀略を敢行する一方で、念願である初の本格的仏教寺院の建立計画にも着手した。これが法興寺飛鳥寺)の建立事業である。
 崇峻元年(588年)には、百済仏舎利と僧、寺院建設工、瓦博士、鑪盤博士、画工などを派遣してきたが、これは百済側が法興寺建立を全面的にバックアップする体制をとっていたことを示しており、こうした百済との格別の緊密さからも、蘇我氏百済ルーツがうかがえるところである。
 ちなみに当時の百済王は554年に対新羅戦で戦死した聖王の子・威徳王であった。法興寺に対する直接の影響関係が判明した王興寺は長く威徳王の二代後の法王の時代に建立されたものと理解されてきたが、近年王興寺遺跡で発見された舎利容器に威徳王が577年に亡き王子のためにこの塔を建てたという内容の銘文が刻まれていたことから、同寺建立年代が30年ほど遡ることになった。そこからまた、王興寺の法興寺に対する直接的な影響関係も判明してきたのである。さらなる研究の進展が待たれることである。
 さて、時の崇峻大王はその峻厳な諡号とは裏腹に、馬子の完全な傀儡であった。『書紀』の天皇紀では通常一行でも記される人物評が全く付されていないほど、影が薄かったと見える。唯一自らの意思で主導したかに見える政策は、治世4年に「任那再建」を打ち出し、二万余の軍を筑紫へ送ったことぐらいである。しかし、実際の半島派兵まではできず、単に使臣を新羅任那(旧加耶)に派遣するだけの中途半端な結果に終わっている。
 ところが、このように無力な傀儡大王をさえ、馬子は抹殺してしまうのである。前代未聞の臣下による大王暗殺である(592年)。その経緯は、崇峻が貢物の猪を指さして「いつの日にか、この猪の首を斬るように、自分が憎いと思う者の首を斬りたいものだ」とつぶやいたことが馬子の耳に入り、大王が自分を疎んじていると警戒した馬子は一族の者を集め、大王暗殺を計画、「東国から調をたてまつってくる」と欺き、偽の儀式を設定したうえで、配下の東漢直駒[やまとのあやのあたいこま]を使って崇峻を暗殺したというものである。
 この点、注記で引用された別伝によると、崇峻暗殺は崇峻の寵愛が衰えたことを恨んだ一人の側室の讒言によるというが、それにしても手際がよすぎるので、一切が馬子側の謀略であった可能性は大いにある。
 さらに周到にも、馬子は崇峻に嫁がせていた娘・河上娘[かわかみのいらつめ]を暗殺実行犯の駒が奪って妻にしたという口実で駒をも殺害し、口封じを図っている。『書紀』はこの一件について、馬子は自分の娘が駒に盗まれたことを知らず、死んだものと思っていたなどととぼけたことを記しているが、大王弑逆という重大犯罪の実行犯殺害は初めから馬子の計画に入っていたことは間違いない。
 こうして、昆支朝は広開土王・欽明の死去から30年も経ずして、彼の子どもたちの代ですっかり斜陽化し、間もなく蘇我氏に乗っ取られてしまうのである。