歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第25回)

第六章 「昆支朝」の成立

(4)昆支大王と倭の自立化

領域拡大
 やや皮肉なことであるが、百済王子であった昆支が倭王に就いてまず着手したのは、475年の王都陥落以来、亡国の危機にあった百済から倭を自立化させ、内発的に発展させることであった。そこで、彼が最初に取り組むべきはとにかくクーデターでもぎとった畿内王権の支配領域を拡大することであった。
 旧来の加耶系王権は王家ルーツの加耶地方がそうであったように、統一国家作りには積極的でなかったように見えるが、昆支大王は早くから高句麗と半島統一の覇権を競い合った百済の出身だけに、倭王としても領域拡大・国土統一に積極的であったと見られる。
 昆支は「武」を名乗って南朝・宋に遣使した時の上表文で、「昔から祖先は自ら甲冑をつらぬき、山川を駆け回り、各地の平定に余念がなかった。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服させること六十六国、渡って海北を平定すること九十五国」などと「祖先」の功績を吹聴してみせたが、このような各地の征服活動こそ彼自身がこれから開始すべき大事業なのであった。
 昆支の領域拡大事業の第一歩は、崇神紀10年のいわゆる四道将軍説話に示されている(崇神天皇応神天皇(昆支大王)の分身像であることは、第一章で示した)。
 そこでは崇神応神天皇が、北陸、東海、西海、丹波の四地方へ遠征軍を派遣したことが伝承風に記される。前章で述べた出雲の意宇王権との同盟関係も、こうした遠征活動の過程で形成されたものと考えられる。
 なかでも西海道(九州)は重視されていたようで、応神9年には後代の豪族・蘇我氏らの祖とされる武内宿禰[たけのうちのすくね]を筑紫に派遣して人民を監察させた記事が見られるほか、同13年には日向加耶系王権の諸県君の娘・髪長媛を召して通婚同盟を結ぶなど、九州南部への勢力拡大も図られている。

軍備増強
 こうした遠征を可能にするための軍備増強も大きな課題であった。特に遠征用騎馬軍団の整備である。
 応神15年に、百済王が使者を遣わして良馬二匹を奉り、これを大和の軽の坂上の厩で飼育させたとの記事がある。昆支大王は故国・百済から軍馬を導入して騎馬軍団作りを急いでいたように読める。
 かつて、5世紀後葉頃から西日本を中心に急速な騎馬化が進むことをもって、朝鮮半島から「騎馬民族」が来襲・征服したとの説が唱えられたこともあったが、事実は昆支大王が政策的に騎馬戦力の整備を追求した結果なのである。
 一方、昆支大王は倭がかねてより得意とした水軍についても引き続き強化を図り、応神5年には伊豆国に命じて長さ十丈の大型高速船を建造し、「枯野」と名づけたとの記事がある。おそらく大王の旗艦であろう。同31年になると、この枯野号が老朽化したため、これに代えて諸国に命じて500の船を建造・献上させたとある。
 このようにして、昆支は水陸双方の軍備増強に努め、畿内王権の地力を強化したのである。

灌漑事業
 昆支大王が推進したもう一つの事業は灌漑であった。当然ながら、これは農業生産力の発展を目的とする経済開発である。
 応神7年には、先の武内宿禰に命じて、諸々の韓人を率いて池を造らせ、これを「韓人池[からひとのいけ]」といったとあるように、当初の灌漑事業には、高い灌漑技術を持った百済人を中心とする渡来人らが動員されたことがうかがえる。
 元来、百済は王権の脆弱性をカバーするためにも、早くから中国式の諸制度・文物を導入していたが、この王権主導による大規模な灌漑、水利開発もその一つであり、まさにウィットフォーゲルが指摘した東洋的専制主義の特徴である「水力社会」が、百済を経て倭にも移入され、やがて東洋的な専制官僚国家の基礎を成すに至るのである。
 こうした灌漑用の池造りは、引き続き応神11年にも、剣池、軽池、鹿垣池、厩坂池を造ったとあり、崇神紀62年への架上としても、依網池、苅坂池、反折池を造ったなどと、昆支大王が晩年になってもなお精力的に灌漑事業を推進する様子が示唆されている。
 この事業は、彼の後継者の時代にはさらに大規模化して継承されていくであろう。

倭済同盟
 昆支大王は、外交面でも倭の自立化を図った。即位直後に「武」名義で南朝・宋へ遣使した際に、百済への軍事統制権を含めた都督称号を請求したことにも表れていたように、彼は従来、倭が百済の侯国という位置づけであったことを改め、倭側から百済を統制する意図を持っていたようである。
 百済では477年9月、熊津亡命政権の文周王が暗殺され、その子で13歳の三斤王が即位したが、その下で豪族・解氏の独裁政治が極まったことは第五章で見た。
 その三斤王も479年11月に夭折すると、昆支大王はすかさず百済の内政に介入し、倭に滞在していた息子・末多王[またおう]を百済王に即位させるべく送り出している。これが百済第24代東城王である。
 『書紀』ではこのことが雄略紀23年条に架上されている。それによると、百済の文斤王(三斤王)が亡くなったことから、天皇は昆支王の5人の子の中で二番目の末多王が若いのに聡明であることを見て呼び出し、親しく頭をなでてねんごろに戒め、筑紫国の兵士500人を付けて送り出し、百済王に就けたという。
 本来、応神紀に掲載されるべきものが雄略紀に架上されているのは、『書紀』が応神天皇の実年代を200年以上も遡及させて提示する作為を加えたために生じたズレであるので、「雄略」を応神天皇=昆支大王に置き換えて、昆支の聡明な息子を励まし、護衛隊付きで百済へ送り出したのは、まさに父・昆支自身であったと読めば合点がいくであろう。
 こうして百済王に就いた末多=東城王は父の見込みどおり英主となり、王権を強化し、高句麗対策として新羅と通婚同盟で関係を強化して、亡命政権の立て直しを図った。
 特に、彼は百済では従来、王権が在地豪族勢力により制約されてきたことを反省し、地方に22の檐魯[たんろ](邑城)を設け、王族を配して王・侯制をいっそう徹底させる大改革を行った。
 こうして東城王は501年に暗殺されるまで、20年以上にわたる長期政権を保ち、父の昆支大王とほぼ同時代的に並び立ったから、この時期には父子で倭済同盟が強化され、両国はほぼ一体のものとして統治されたであろう。ちなみに、百済を倭で「くだら」と訓むようになったのは、先の檐魯をクンダラともいったことに由来すると見られる。これは昆支‐東城の父子同盟時代に、東城王の新制が倭にも伝えられた結果ではないだろうか。
 この倭済同盟では父の統治する倭が優位性を持っていたと考えられる。これ以降、もはや倭は百済の侯国ではなくなり、自立した独立国として発展していくのである。

遣使外交の中止
 倭の外交的自立を促したもう一つの政策は中国南朝への遣使外交の中止である。昆支大王の中国遣使は「武」名義による478年遣使が最初にして最後のものであった。その後、479年には新王朝・南斉から「鎮東大将軍」、502年には南斉に取って代わった梁から「征東(大)将軍」に順次進号が認められているが、中国側の王朝交替に伴う書類上の処理にすぎず、実際の遣使に基づく進号ではない。
 第五章でも指摘したとおり、彼としては「倭国王」の称号さえ認証されればさしあたり必要にして十分であったので、以後、国内的な領域拡大に専念するためにも面倒な遣使外交は中止したのであろう。
 ただ、中国南朝側でも5世紀末から6世紀にかけてめまぐるしく王朝が交替し、政情が安定しなくなったことも遣使外交中止と関連するかもしれないが、百済の東城王は引き続き南朝外交を継続しているところを見ると、昆支大王の遣使中止には固有の事情があったと考えられる。
 いずれにせよ、中国遣使外交中止は彼の子孫たちにも継承され、倭が再び―別の形で―中国外交を再開するのは、100年以上も後の7世紀代に入ってからのことであった。