歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第24回)

第六章 「昆支朝」の成立 

(3)旧王家の運命

処刑と潜伏
 ここで、昆支のクーデター後の旧加耶系王家の運命について考えてみよう。とはいえ、それを明確に跡づけられるような史料は何も残されていない。ただ、『書紀』の顕宗天皇紀に収められた次のような「弘計[をけ]・億計[おけ]兄弟の物語」がかすかなヒントを与えてくれる。
 まず、この話の発端は第21代雄略天皇の時代に飛ぶ。雄略即位前紀によると、雄略は先帝の安康天皇が雄略の従兄・市辺押磐皇子[いちのへのおしわのみこ]に皇位を譲ろうとしていたことに反発し、同皇子を狩りに誘い出して謀殺した。そこで、同皇子の二人の子・弘計王と億計王の兄弟も従者とともに難をいったん丹波国与謝郡へ逃れたが、追っ手を懸念し、さらに播磨国明石へ逃避し、その地で丹波小子[たにはのわらわ]と変名して地元豪族の家臣となった。
 ある時、酒宴の前に、弟の弘計が「身分を明かすにはちょうどよい機会だ」と切り出し、兄弟は身分を暴露して殺されるのと、隠して災難を逃れるのとどちらがよいかと語り合った末、弟の弘計が代表して身分を明かすことにした。宴席で舞うように求められた時、兄の億計に続いて舞った弘計は叫び歌いながら、自らが押磐皇子の子であることを明かす。
 これに驚愕した地元豪族は兄弟のために仮宮を建て、都に上って時の第22代清寧天皇に報告したところ、子のない天皇は喜び、兄弟を迎え、兄の億計を皇太子とする。そして清寧天皇死去の後、兄弟は譲り合った末に、弟の弘計がはじめに即位し(第23代顕宗天皇)、弟の没後に兄の弘計が即位した(第24代仁賢天皇)というハッピーエンドである。
 このような筆法は、『書紀』の執筆者が歴史叙述と説話の区別も忘れてしまっていたことを示すものであるが、一方で史実の断片をも垣間見せてくれている。それは弘計が身分を明かす際に歌った次のような歌詞である。

 石上の振(布留)の神杉を、本を伐り、末を押し払うようにして、市辺宮に天下を治められた天万国万押磐尊の御子であるぞ、我は。

 弘計・億計兄弟の父である市辺押磐皇子は第17代履中天皇の皇子とされ、従弟の雄略によって皇位継承前に謀殺されたことになっているが、弘計の歌ったところによれば、「市辺宮で天下を治めた」という。
 ここから言えることは、市辺押磐尊=押磐王こそ、昆支のクーデターで打倒された旧加耶系王権、すなわちニニギ朝最後の王ではなかったということである。ただ、それが昆支=応神の時代でなく、雄略の時代の出来事として架上されているのは、『書紀』が応神天皇の年代を200年近くも遡及させる作為を加えているためである。
 雄略による謀殺云々といった物語的皮膜を取り去ってみると、押磐王は昆支のクーデター後に処刑されたのではないかと推定できる。それで王子たちも難を逃れて畿内を離れるのであるが、弘計・億計兄弟がはじめ丹波国へ逃れたというところが一つのポイントである。
 第三章で見たように、ここにはやはり加耶系の丹波王国が所在していたから、王子らは同系の王国領内へ亡命しようとしたと考えられる。しかし、政権を掌握した昆支大王は間もなくこの地域にも遠征軍を送ってきたため、再び身の危険が迫り、兄弟は南下して播磨まで逃れて潜伏したと見れば一応合点がいく。
 昆支は元来、武人であったから、少なくとも治世初期には旧王家関係者を暴力的に排除する武断統治で権力固めを図ったであろうことは想像に難くない。
 昆支大王が旧ニニギ朝王家の根絶を図ったために、この王統の系譜は歴史の闇に埋もれてしまったが、何らかの伝承の形で断片的には残されていたと見られ、それが昆支朝の末裔である8世紀の奈良朝の手で改変・潤色されたうえ、皇統譜に架上・編入されたのが、初代神武天皇に、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までのいわゆる「欠史八代」を加えた九代の天皇系譜ではないかというのが私見である。
 九代と言えば、短命な古代では一代=15年として計算しても135年間であるから、477年頃にクーデターで打倒された旧加耶系王権の始まりはおよそ4世紀中葉の少し前となり、第二章で行った推論とも符合してくるのである。

復権と後裔氏族
 昆支大王によって排除された旧加耶系王家であるが、『書紀』はその復権を示唆するヒントも与えている。その一つが、前回見た「弘計・億計兄弟の物語」のハッピーエンドであるが、もちろんかれらが王家として復位したというのは史実とは思われない。
 むしろ、兄弟のうち兄の億計(仁賢天皇)の娘・手白香皇女[たしらかのひめみこ]が第26代継体天皇の正妃に迎えられたという継体紀の記事のほうが迫真性がある。
 ただ、手白香が実際に継体の正妃であったかどうか筆者は疑問を持つが、この問題の検討は次章に回すとして、彼女は継体天皇との間に後の第29代欽明天皇を産み、実在性も高い。
 その手白香が億計の娘であるということの意味は、昆支大王の治世が終わった後、旧加耶系王家が赦免され、その一族の女性が昆支朝の大王の妃に迎えられるまでに復権を果たしたということである。
 そうだとすると、王家の後裔氏族を見つけ出すことができるはずであるが、その第一候補は第三章で言及しておいた軽氏である。この一族は、前述したように軽樹村坐神社に氏神を奉祭したが、同神社の主祭神がいつしか誉田別命応神天皇、すなわち昆支大王にすりかわってしまっている。このことは、軽氏として臣籍降下のうえ復権した加耶系王家が、昆支朝への忠誠の証として、自ら本来の氏神に代えて八幡神を奉祭するようになった事実を示唆している。時代に適応し、一族を維持するためには必要な選択であったのであろう。
 ちなみに軽氏の祖は第9代開化天皇の皇子・彦坐王[ひこいますのみこ]の子孫・白髪王[しらかのみこ]とされるが、前述のように、開化天皇までを改変・潤色された旧王朝の王統とすれば、軽氏が開化天皇流とされることは、直系かどうかは別としても、かれらが旧王家の後裔であることを示唆していると読める。
 ちなみに、『万葉集』に詠み人知らずの歌として、「天飛ぶや軽の社の斎槻[いわいつき]幾世まであらむ隠妻[こもりづま]ぞも」というのがある。この「軽の社」は軽樹村坐神社と推定されるが、そうだとすると「隠し妻」という潜伏のイメージが軽の社と絡めて歌い込まれているとも解釈でき、意味深長である。
 軽氏はまた、飛鳥時代になると、「賀留大臣玄理」という人が推古朝に唐(正確には隋)から持ち帰った薬師如来像を本尊として創始したと伝えられる軽寺という氏寺も営んだ。
 「賀留(大)臣」の素性は知られていないが、賀留=軽氏の末裔である可能性は高く、そうだとすれば、軽氏は7世紀に入っても朝廷で遣隋使を出すほどの地位を保っていたようである。
 一方、もう一つ旧加耶系王家後裔の可能性を持つ氏族として布留[ふる]氏がある。第二章でも見たように、加耶は製鉄の地であり、加耶系渡来人は火[プル]氏であるから、布留とは火[プル]の転訛と見られ、まさに布留=火氏なのである。
 この一族と軽氏の関係は断定できないが、王家の有力分家か、あるいは旧加耶系王朝末期に王統の交替があり、布留氏が軽氏に代わって王家そのものであったかもしれない。というのも、先の弘計・億計物語に出てくる弘計の身分告白の歌詞に「石上の振(布留)の神杉」とあるように、兄弟の父・押磐尊が統治したという市辺宮は布留氏が拠点を置いた石上の布留にあったとも読めるからである。
 布留氏は公式には皇別氏族とされ、柿本氏らとともに旧王統第5代孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命[あめたらしくにおしひとのみこと]の後裔とされることも、加耶系王族の可能性を示唆している。
 かれらは石上神宮物部氏管轄となるのに先立って、市川臣として同神宮神宝管理者に就き、後に一時物部首[もののべのおびと]に降格されるが、天武天皇代に布留宿禰として再昇格している。
 ところで、奈良県明日香村栢森[かやもり]に加夜奈留美命[かやなるみのみこと]神社という神格化された個人名を冠した珍しい神社がある。この加夜奈留美命は『記紀』にも登場せず、いかなる神なのか諸説あって確定していないが、この神は「出雲国造神賀詞」の中でも「賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神名備に坐せ・・・」とされているほか、吉備津神社の社伝でも、吉備津神社を加夜臣奈留美命が祀ったのが社の起こりとあり、いろいろなところに顔を出す。
 現時点では確定できないが、「奈留(流)美」の「奈留」とは「奈良」と同様、「国」を意味しており、「美」は「御」と同様の尊称で、加耶系王権の始祖王を神格化したものととらえてみたい。ルーツが同じ吉備にも顔を出すゆえんである。
 すると、加夜奈留美命神社は昆支大王の後継者が旧加耶系王家を赦免・復権させた後、鎮魂の目的で創建したものと推定することもできるのではないだろうか。