歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

弥助とガンニバル(連載第5回)

四 信長と弥助

 ここで、ようやく本連載の主人公弥助の登場である。弥助は日本の歴史上、明確な活動記録の残る唯一の黒人武士である。出身は当時のポルトガル領東アフリカに属したモザンビーク、日本へ連行してきたのは、イタリア人のイエズス会司祭アレッサンドロ・ヴァリニャーノである。
 ヴァリニャーノは元来、イエズス会東インド管区の巡察師という地位にあり、ポルトガルリスボンからモザンビークを経由して、ポルトガル領インドのゴアに渡航、そこからさらにポルトガル領マラッカ、さらにポルトガル居留地マカオを経て日本へ渡った。
 この来日ルートのどこで弥助を入手したかは不明であるが、弥助がモザンビーク出自とすれば、モザンビーク滞在中に弥助を入手して従者にしたと考えるのが最も自然だろう。いずれにせよ、司祭の従者になった弥助は、黒人奴隷としては幸運者だったと言える。
 さて、記録によれば、日本入りしたヴァリニャーノは1581年に時の最高執権者織田信長と会見し、この時に弥助も信長に引き合わされている。史書では「黒坊主」と表現されている弥助の本名は記録されていないが、名前の喪失は奴隷の宿命であった。
 好奇心が強く、新奇なものに飛びつく信長は「黒坊主」が気に入り、ヴァリニャーノに掛け合って譲渡を受け、弥助と命名して自身の家臣としたのであった。しかも、隷属的な奉公人ではなく、帯刀・扶持の武士として処遇したというから、信長の弥助に対する「愛情」は相当なものであった。
 しかし、このような破格の待遇は多分にして信長の個人的な性格によっており、当時の日本に差別的な意識がないわけではなかった。当時の記録では弥助を「黒坊主」とか「くろ男」などと表記しており、日本人が初めて見た肌の黒い人間に対する好奇の混じった蔑視的な視線も滲み出ている。
 本能寺の変後、弥助を捕らえた明智光秀が「無知な動物」であることを理由に弥助の処刑を免除し、教会(南蛮寺)預かりとしたのも、弥助に対する温情というよりは、黒人を人間とはみなさない当時の日本人の意識を反映した処遇であったと言える。
 信長は弥助をいずれは城持ちに昇格させる意向だったと言われるほど気に入っていたらしいが、弥助も体験した本能寺の変により、実現することはなかった。上述のように、弥助は明智方に囚われたが、処刑は免れて教会預かりとなる。
 以後の弥助の消息は記録に現れず、不明である。信長後継の豊臣秀吉が弥助の行方に関心を持った形跡もない。元主人のヴァリニャーノは変の前に天正遣欧使節随行していったん日本を離れた後、1590年、98年と来日を重ねているが、彼も弥助の行方には関心を持たなかったようである。
 こうして、弥助はわずか1年余りの活動を残して、忽然と消えてしまうのである。黒人の存在は極めて珍しかった当時、どこかで存命していれば記録に残るはずである。それが全く残されていないのは、いずれかの時点で日本を離れた可能性が高い。
 その点、本能寺の変後の1584年、九州の戦国大名間の戦いである沖田畷の戦いキリシタン大名有馬氏の軍中に黒人武士の存在が記録されており、弥助との同一性が問題となることもあるが、弥助が九州のキリシタン大名の下に移っていた可能性もゼロではなかろう。
 あるいは南蛮寺で身柄を保護されていたとしても、1587年の秀吉によるバテレン追放令後、京都の南蛮寺は破却され、宣教師たちも平戸周辺に潜伏した。目立つ黒人を連れているわけにもいかず、弥助のような黒人は真っ先に送還されたと考えられる。
 いずれにせよ、弥助の存在は二度と記録に現れず、また彼の子孫を称するような家系も実在しないので、彼は本能寺の変後、出国したと見るのが自然である。そして弥助を日本に登場させたポルトガル奴隷貿易も、17世紀に入ると斜陽の時代を迎えるのである。