歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

File:日本の女性君主たち(連載第2回)

Ⅰ 古代の女性君主たち

 
 ここで古代とは、日本列島にクニが形成され始めた弥生時代後期から古墳時代を経て飛鳥時代前期までを包括する。この間、内外史料上には5人の女性君主が現れるが、その最初は中国史料に現れる邪馬台国の二人の女王、中でもヒミコ(卑弥呼)が初出である。
 もっとも、ヒミコ以前に日本の女性君主が皆無であったと断定できる証拠はないが、史料上で確認できる最初の女性君主は現時点でヒミコであることに変わりない。

 

一 邪馬台国の二人の女王

 

1:ヒミコ[卑弥呼(3世紀前半:生没年不詳)

 

(ア)登位の経緯
3世紀前半の倭国は多数の小国に分かれ、歴年にわたり内乱状態にあった中、女王に共立され、平和が確保された。内戦終結のため、ヒミコを君主とするある種の同君連合体制が構築されたと考えられる。


(イ)系譜
魏志』では、「一女子」とあるのみで、王族かどうかは明記されていない。「鬼道に仕えた」とも記された経歴から、シャーマンであったことは確実である。おそらく、すでに高名な巫女のような人物であったが、王女や王妃といった女性王族ではなかったと考えられる。


(ウ)事績
国内的には、内乱状態を鎮静化し、平和と安定を確保した。対外的には、238年から247年にかけて、三度にわたり魏に遣使し(最後はライバル国であった狗奴国との交戦状況の報告)、朝貢外交を展開、日本の状況を中国王朝に知らしめた。


(エ)後世への影響
邪馬台国と後の大和朝廷の関係性如何に関しては諸説あるが、邪馬台国大和朝廷連続説による場合は、巫女としての霊的な指導を通じて内乱を平定し、大和朝廷の基盤を築いたことになる。連続説に立たずとも、後のオオキミやその発展型としての天皇が純粋に世俗的な統治者としての君主を超えた精神的・霊的な大祭司的存在でもあったことに何らかの影響を及ぼした可能性はある。

 


2:トヨ(イヨ)[壱与](3世紀後半:生没年不詳)


(ア)登位の経緯
ヒミコ崩御の後、再び男性の王を立てるも、内戦が再発したことから、13歳にして女王に共立された。ヒミコの先例によったものと見られる。


(イ)系譜
魏志』ではヒミコの「宗女」とだけあり、詳しい続柄は記されていない。ヒミコには夫婿なく、生涯独身であったため、実子や孫でないことはほぼ確実である。ヒミコは高齢で崩御したとされることから、13歳という年代は、姪もしくは兄弟姉妹の孫の可能性があろう。


(ウ)事績
国内的には内乱の再発を鎮静化し、対外的には魏からの使者を送る形で魏に遣使するなど、ヒミコを踏襲している。265年頃にも、西晋に倭の女王が遣使したとの記述が中国史書に見え、年代的にはトヨと符合する。これは魏の滅亡後、司馬氏系の新王朝の晋(西晋)に改めて朝貢を試みた可能性を示唆する。


(エ)後世への影響
トヨに関する中国史料の情報は断片的で、以後、邪馬台国自体の情報も完全に途絶えるため、トヨの後世への影響も定かでない。これだけでトヨが邪馬台国最後の君主であったと断じることはできないが、次に日本の動静が中国史料に現れるのは、150年以上も後、南朝宋に遣使したいわゆる「倭の五王」の時代である。この「五王」と邪馬台国の関係性如何も不明である。