四 消えた帰雲城
白川郷内ケ島氏が居城としたのは、帰雲[かえりぐも]城であった。この詩的な名称の居城は白川の帰雲山(標高約1600メートル)付近に所在したと見られる山城であったが、天正十三年(1586年)の天正地震による山体崩壊により、内ケ島氏一族もろとも土砂に埋もれ、消滅してしまったことがわかっている。
そのため、居城の正確な跡地すら現在も不明のままで、発掘調査が続いているところである。往時には城下町も形成され、繁栄していたと見られる。地震の被害規模は内ケ島氏一族の大部分と家臣に加え、城下300余軒、推定500人余りで、ほぼ全滅状態とされるので、さほど大規模な城下町ではなく、城下村といった程度だったとも考えられる。
とはいえ、遺構が未発見の帰雲城の景観は不明のままで、まさに雲をつかむようなものである。しかし、同時代やそれ以降の類似の居城から、往時の帰雲城を推定してみることはできるかもしれない。
まずかなり高い山を利用した山城であったという点では、雲海に浮かび上がる景観から俗に「天空の城」としても知られる兵庫の竹田城が想起される(外部サイト)。これは山名宗全が嘉吉三年(1443年)に築城したとされる室町時代の山城である。
帰雲城も寛正三年(1462年)頃に、白川郷内ケ島氏初代の内ケ島為氏によって築造されたことから、おおむね同時代の山城として参考になるところである。竹田城には天守台跡が残り、往時には天守を擁したと見られているが、帰雲城については同時代の図面も残されておらず、不明である。
さらに、江戸時代に岐阜の苗木藩主を務めた遠山氏が代々の居城とした苗木城も時代的には後ながら、岩山の地形を利用しつつ、急峻な崖上に築造された独特の難攻山城であり、帰雲城の類例として参考となるかもしれない(外部サイト)。
一方、内ケ島氏時代の白川郷は金・銀の鉱山資源に恵まれ、内ケ島氏には鉱山奉行という顔もあったことから、帰雲城をめぐってはかねてより埋蔵金伝説が根強く、一帯は宝探しスポットともなっている。
たしかに、内ケ島氏が金銀で潤っていた可能性は大いにあるが、直接に金銀を退蔵するよりは、金銀製品や金・銀箔などの形で居城を飾っていた可能性が高いと思われる。その点で参考になるのは時代的に後になるが、織田信長がやはり山城である岐阜城に付設した居館である。
ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスも招かれ、「宮殿」「地上の楽園」と称賛したこの居館の跡地からは金箔瓦が発見されており、フロイスは金で彩られた信長の正室・濃姫の部屋を訪れたとも記している。
帰雲城は信長居館よりも100年近く前の築造ではあるが、秀吉時代初期まで存続しているので、改築により金銀を用いた壮麗なものとなっていた可能性はあるだろう。いずれにせよ、帰雲城は山体崩壊により完全に埋没するという数奇な運命を辿ったゆえに発掘自体が至難であり、今後も遺構の発見は容易でなかろう。