歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

パレスティナ十字軍王国史話(連載第5回)

第4話 「仮面」の英主ボードゥアン4世

 
 その200年弱の歴史の中で、あまり有能な王を輩出することのなかったパレスティナ十字軍王国であったが、例外的に称賛されているのは、ボードゥアン4世である。4世は、女王メリザンドの孫に当たる。
 父のアモーリー1世はその約10年の治世で五度のエジプト遠征を繰り返した。当時エジプトを支配していたイスラームシーア派ファーティマ朝の内紛・混乱に付け込んでエジプトを手に入れようとしたのであった。
 ほぼ守勢にあった十字軍王国が積極的に海外膨張したのはこの時くらいであるが、アモーリーは第五次遠征中に赤痢に感染し急死した。その跡を継いだのが、長男のボードワンである。13歳での即位となったため、成年に達するまでは主にパレスティナ十字軍王国の属国の一つトリポリ伯国領主レーモン3世が摂政を務めた。
 幼少期から英才で知られたボードゥアン4世であったが、子供の頃にハンセン病を発症したことがその生涯を制約した。王は生涯独身で、後継者を残すことができなかった。病気は次第に進行し、治世末期には支えなしで歩いたり、手を使ったりすることができなったばかりか、まばたきができず、角膜が乾燥し、失明した。
 ちなみに、ボードゥアン4世時代の十字軍王国を舞台とするリドリー・スコット監督の歴史映画『キングダム・オブ・ヘブン』に登場する4世(演エドワード・ノートン)は顔に仮面を着けているが、王がそのような姿であったことを示す史料はない。しかし、ハンセン病の進行した皮膚症状からすると、有効な治療法のなかった当時、少なくとも公の場での覆面姿もあり得ないことではなかったかもしれない。
 その点、時の教皇アレクサンデル3世は当時の常識であったハンセン病に対する偏見からボードゥアンのハンセン病を「神の正当な裁き」と断じ、同情を示さなかったが、有能な側近を集めたボードゥアンは、全盛期にあった十字軍国家を統治し、カイロのファーティマ朝を廃してアイユーブ朝を建てて新たなイスラーム世界の盟主として台頭した英主サラーフッディーンから王国を防衛した。
 中でも、すでに病身のわずか16歳だった1177年に自ら親征したモンジザールの戦いでは、2万人を超すサラーフッディーンの大軍を数千の劣勢で大敗させる戦果を上げ、名声を博した。ただ、2年後のマルジュ・アユーンの戦いではサラーフッディーンの逆襲に敗北し、ボードゥアンは辛くも捕虜となることを免れた。
 とはいえ、4世の治世の間、王国は守られていた。その点、フランスの歴史家ルネ・グルッセは4世を英雄視し、「(その)雄姿は、膿と瘡に覆われながらも、聖人の面影を宿している。」と称賛、ローマ帝国マルクス・アウレリウス賢帝や後に十字軍を率いたフランスのルイ聖王(ルイ9世)と同列視している。
 また、アラブ・アンダルシアの地理学者で著名な旅行家イブン・ジュバイルは、4世時代の十字軍王国に30日余り滞在し、地方のムスリム共同体の快適とは言えない状況と対比しつつ、支配層フランク人の下で暮らすムスリムに対するフランク人の公正さを称賛している。
 実際のところ、十字軍王国の社会は決して平等ではなく、ムスリムが奴隷化されることもあり、ムスリムや東方キリスト教徒は自由人でもエルサレム市内に住むことは許されなかった。かれらは二級市民とされ、政治や立法には関与せず、軍務に就く義務もなかったが、差別・抑圧されることもなかった。
 特に支配層を成す十字軍戦士子孫のフランク人は数が希少なため、専門職が不足しており、非フランク系の司祭や医師が多く、特に医師はムスリムユダヤ人に依存していたとされるので、ボードワン4世の侍医もムスリムユダヤ人であった可能性もある。
 いずれにせよ、全盛期の十字軍王国では遊牧ベドウィンドルーズ派ユダヤ教徒などの少数派も含む多民族・多宗派が住み分けつつ共存する社会が形成されており、現在見られているようなパレスティナからは想像もつかないような光景であったのである。
 ボードゥアン4世時代は十字軍王国にとって相対的に最も安定した時期であったが、如上の病身から短命であることは王自身が予見していた。問題は後継問題にあった。王は存命中から、姉シビーユと姉婿のイタリア人貴族モンフェッラート侯家のグリエルモの子ボードゥアン5世を後継に定め、共同統治を開始していたが、4世は1185年に24歳で早世した。
 ところが、続いて翌年、5世も10歳に満たずして夭折してしまう。その後は生夫ギー・ド・リュジニャンの共同統治となるが、弟とは異なり、有能とは言えず、これ以後の王国の命運はにわかに傾くのであった。