歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第9回)

第三章 4世紀の倭

4世紀の倭の情報は中国の史書から消え、「謎の4世紀」とも言われる。しかし、朝鮮史料の『三国史記』や『広開土王陵碑文』などから、この時期の倭が朝鮮三国と活発な外交的・軍事的駆け引きを繰り広げる様子が窺える。この「倭」は果たして畿内の倭なのか、それともまったく別の勢力なのか。

(1)邪馬台国の解体

「新皇国史観」への警鐘
 「謎の4世紀」を解明するためには、実は3世紀の倭の中心であった邪馬台国の問題に前提的に取り組む必要がある。
 邪馬台国問題と言えば、その所在地論争、すなわち畿内か九州北部かというあまりにも有名な論争にぶつかるが、プロローグでも述べたように、今日この論争には“決着”がつきつつある。
 その決め手が、箸墓の年代論である。これもプロローグで触れたとおり、邪馬台国女王卑弥呼陵であるとされる箸墓の年代が最新の放射性炭素年代測定で邪馬台国と同時期の3世紀半ばと判定されたから、邪馬台国畿内に所在したに違いないというのである。
 しかし、この議論のおかしさは、墓誌銘などの客観証拠もないのに、箸墓=卑弥呼陵と結論を先取りしたうえで、後知恵的に箸墓の年代論をあてはめて、畿内説を正当化しようとするところにある。
 このような非科学的な論法の根底には、何としても邪馬台国天皇王朝史に組み入れて、邪馬台国ヤマト王権→ヤマト朝廷→天皇王朝という直線的発展史観を考古学で跡づけようとする「新皇国史観」の衝動が伏在している。
 これは戦前の皇国史観が『記紀』の叙述によりかかりすぎていたことを“反省”し、考古学によって“科学的”に根拠づけし直そうとするものとも考えられる。そのせいか、今日、邪馬台国畿内説は歴史家より以上に考古学者によって強力に宣伝されるようになっている。
 しかし、決め手だとされる炭素年代測定についても、「今日の炭素年代測定法は飛躍的に精度が向上したので、その結論に誤差はほとんどない」というような断定は危険である。
 最新の年代測定は、箸墓出土の布留0式土器と呼ばれる古墳時代初期の土器の付着炭化物を素材として行われているが、本来古墳の年代測定は全出土品を精査したうえで、それらの文化的な特徴や、墳墓で最も肝心な墓制の形式も含めて総合的に判定することが科学的な方法であり、一部の出土品だけで断定するのは危険である。
 この点、箸墓は孝霊天皇皇女・倭迹迹日百襲姫命の墓として宮内庁が管理し、発掘が許されていない。このように、宮内庁天皇陵やそれに準ずる皇族級墳墓と治定した古墳については発掘調査を許さないという政府の施策は、憲法23条で保障された学問の自由の侵害として非難されなければならないが、それだけに未発掘古墳の年代測定には慎重さを要するのである。
 従来から、全般に古墳時代の始まりを早く取ろうとする傾向があり、箸墓も3世紀半ば頃と見るのが有力であったが、そこに「国の古さを誇る」といった一種のナショナリズム(考古ナショナリズム)の意識が介在しているとすれば、それは学問より政治に接近していくことになる。

九州北部説の正当性
 邪馬台国は何といっても中国の史書魏志』に現れるクニであるから、そこに記されている民族誌的及び地誌的叙述と考古学的証拠との照合を通じて所在地を特定していくのが正攻法である。本連載は邪馬台国論争を直接の主題とするものではないので、詳論する余裕はないが、以下要点だけを指摘しておきたい。
 まず『魏志』の民族誌的叙述の中でも重要なポイントは兵器や産物に関する叙述、特に鉄器と絹である。この点、3世紀の遺跡を比較すると、鉄器も絹も九州北部からの出土が圧倒的という。
 次に、民族誌的な叙述としては、「棺はあるが、槨はなく、土を封じて塚をつくる」という墓制に関する叙述が重要である。この条件にあてはまるのは九州北部の墓制であり、畿内で箸墓と同時期の初期古墳には槨がある。特に、箸墓の近くにある最古級の前方後円墳、ホケノ山古墳が木槨墓であることは箸墓の構造も同様のものであることを推測させ、『魏志』の記述とは相容れない。
 さらに、地誌的叙述の中では、邪馬台国に統属する小邦として記された約30の国名リストも改めて注目に値する。これは従来、中国人による倭の地名の転写間違いなどもあって、あまり当てにならないとも言われてきたが、九州北部の地名と照合してみる価値はなおある。
 例えば、斯馬[しま]国=志摩(糸島の志摩)、対蘇[たいそ]国=鳥栖、支惟[きい]国=基、為悟国=伊賀(または伊賀屋)、巴利[はり]国=原(前原、中原等々)、烏奴[おな]国=大野、邪馬国=八女、呼邑国[こゆう]国=木屋、都支[とき]国=多久、己(乙)百支[いはき]国=岩崎(?)などなど。
 地名辞典を利用して古地名を洗い出せば、より厳密な照合ができるかもしれない。これはひとつ興味と暇のある方にお委ねしたい。
 ところで、畿内説が『魏志』に記された魏の皇帝から卑弥呼に下賜された「銅鏡百枚」に該当する考古学的証拠として提示してきた三角縁神獣鏡は元来、呉・東晋時代の中国鏡であって(ただし、中国での出土例はない)、北方系の魏鏡とは異なるので、これが畿内の古墳から多数出土するとしても、邪馬台国の直接の手がかりとはならない。むしろ、魏・西晋時代の中国鏡である方格規矩鏡などは、3世紀代の九州北部の遺跡から出土するものが大半であり、これこそが「銅鏡百枚」に該当する可能性が高い。
 さて、こうして邪馬台国九州北部説を正当とするにしても、その具体的な場所の同定については九州北部説の中でさらに説が分かれるのが現状である。
 これについても詳論する余裕はないが、筆者自身はヤマの音韻から八女[やめ]を想定する。ちなみに、八女の地名由来について、『書紀』の景行紀は18年7月条で、天皇熊襲征伐のため九州に親征し、筑紫を巡行中、地元の豪族・水沼県主[みぬまのあがたぬし]から「八女津姫という女神が常に山の中におられる」との説明を受け、八女国の名が起こったと記している。この記述だけでは決め手とはならないが、八女の地に女神がいるというのは、「女王」の暗喩とも読めなくない。
 もっとも、『書紀』自身は、前述のように、神功皇后卑弥呼に比定していたわけで、編者らに八女津姫卑弥呼という認識はなかったと思われるが、八女付近には「女王」に関する伝承が後世まで残されていたことが『書紀』の叙述に反映された可能性はある。

邪馬台国の構造
 ここで考えてみたいのは、邪馬台国とはどのような構造を持ったクニであったのだろうかということである。
 一般的なイメージとしては、女王が統率するまとまりを持った一つのクニということになろうが、『魏志』をよく読み直してみると、決してそうではない。
 そもそも邪馬台国の起こりとして、倭国では長く内乱が続いた(『後漢書』によると、桓帝[在位147~167]と霊帝[在位168~188]の治世中という)ことから、諸国が卑弥呼を共立して平和を維持したとされる。要するに、邪馬台国とは「鬼道につかえ、よく衆をまどわせる」というシャーマン卑弥呼の宗教的なカリスマ性に依存した暫定的な平和条約体制であって、完成した世襲王朝ではなかったのである。
 こうしたクニの由来を反映して、邪馬台国は筆頭国・伊都国以下、約30カ国に上る小邦の連盟体という構成で成り立っている一種の連邦国家であった。
 注目されるのは、邪馬台国に属する小邦リストの中に「邪馬国」というのが見えることである。一般的には、邪馬台国と邪馬国は区別して、この邪馬国も邪馬台国に属する小邦の一つと解釈するようであるが、むしろ邪馬台国とはこの邪馬国を土とする連邦国家とも理解できるのである。従って、前回邪馬台国の所在地として八女を挙げたことの意味も、女王卑弥呼が所在する邪馬国(八女国?)の所在地として理解するのが本来正確である。
 実際、卑弥呼の役割は精神的な指導者としてのそれにとどまっており、現実の政治外交を主導していたのは、「郡使の往来常に駐まる所」にして、諸国の検察を行う「一大率」が置かれたという糸島半島の伊都国であった。この伊都国自身にも世襲の王がいたと記されるが、その伊都国王が邪馬台国の「一大率」を兼職していた可能性もあるだろう。
 ちなみに『魏志』は邪馬台国時代の伊都国の人口について「千余戸」としており、奴国を「二万余戸」としているのと比べても少なすぎるが、『魏志』が参照したとされる先行書『魏略』逸文では伊都国の人口を「万余戸」としているので、『魏志』の誤記の可能性が高く、伊都国は邪馬台国(連邦)全体で七万余戸とされる人口の相当部分を占める大国であったと考えられる。
 このように、大国・伊都国が主宰し、女王の所在する邪馬国を(精神的な)土台とする連邦国家というのが、邪馬台国の実体であったと考えられるのである。

解体の時期・要因
 さて、ここでようやく本節の主題である邪馬台国の解体にたどりつく。ただ、普通、邪馬台国論争では「解体」という問題は扱わない。それは、邪馬台国をヤマト王朝史に組み込む畿内説はもちろん、九州説でも邪馬台国畿内にそのまま東遷してヤマト王権になったとか、邪馬台(壱)国がいわゆる九州王朝の母体となった(九州王朝説)というように、邪馬台国の存続を前提とした論を展開することが一般だからである。
 しかし、邪馬台国の存続を確実に保証するような史料は存在しない。『魏志』によると、卑弥呼の死去後、男王を立てたがおさまらず、再び倭国は内乱に陥るが、卑弥呼の親類で13歳の少女・台与(とよ)を立てたところ、平和を回復したという。
 しかし、台与は魏の皇帝から告諭されたのに対し、答礼ため遣使したとされるのものの、『魏志』はその年代を記していない。その後、魏自身も滅亡し(265)、王朝が西晋に代わる。『晋書』(7世紀編纂)では、西晋成立年の265年に倭王の入貢が記録されており、これが台与の遣使かとも思われるが、この遣使を最後に倭は中国側の史書から姿を消し、次に現れるのは、160年近くも後に有名な「倭の五王」の筆頭・讃が南朝東晋・宋に遣使した時のことなのである。
 この長い中国外交上のブランク―謎の4世紀―をどう見るかであるが、やはりその間に邪馬台国は解体したものと理解したい。その時期を正確に特定することは至難であるが、一応、倭の消息が途絶える3世紀後葉と推定しておいてよいであろう。
 解体の要因は、まさに先に述べた邪馬台国の「構造」そのものの中にある。つまり元来、卑弥呼共立体制としての邪馬台国は暫定的な平和維持の体制にすぎず、それはもっぱら卑弥呼という宗教的なカリスマの統合力に依存していた以上、彼女の死をもって終焉する運命にあったのである。
 案の定、彼女の死後、男王の下で再び内乱が勃発したが、これを止揚すべく言わば卑弥呼2世として共立された台与はとうてい卑弥呼のカリスマ性に及ばなかったのであろう。おそらく、彼女の在位中に邪馬台国はなし崩しに解体してしまったのではないだろうか。
 前章で見たニニギやニギハヤヒ天孫族として形象化された集団が加耶諸国から渡来してきたのは、こうして3世紀の倭の中心であった邪馬台国が解体して間もない頃のことであったと考えられる。