三 十字軍王国と騎士団
パレスティナ十字軍王国の王家を頂点とする支配層はフランス人騎士であったが、その人口はごく少数であった。というのも、十字軍戦士の大半は戦争終結後、気候的にも合わない中東の地を離れて本国へ帰還していき、少数の戦士とその子孫のみが現地に残留したからである。
そのため、軍事力不足が恒常化したことから、騎士団の制度が発達した。その中核は1113年に正式発足した聖ヨハネ騎士団である。同騎士団は巡礼者向けの医療施設を兼ねた宿泊施設を沿革とするため、宿泊施設や病院の運営といった社会事業を担い、そこからホスピタル騎士団の別名も持つ。実際、聖ヨハネ騎士団の所属騎士には平時に医療奉仕義務が課せられていた。
もちろん騎士団であるからには、聖ヨハネ騎士団は軍事活動にも従事した。同騎士団は十字軍王国の主たる防衛力となり、シリアにクラック・デ・シュヴァリエとマルガット城の二大要塞、各地に100を超える砦を構えるまでになった。
このうち、前者のクラック・デ・シュヴァリエは聖ヨハネ騎士団が当時の先端的な築城術で独自に築造した代表的な十字軍要塞建築として現在まで良好に保存され、2006年には世界遺産に登録されている。
聖ヨハネ騎士団と並ぶ騎士団として、1119年に正式発足したテンプル騎士団があった。これはフランス人騎士ユーグ・ド・パイヤンが聖地巡礼者の保護を目的に創設した警備隊を前身とするが、王国の第2代国王ボードゥアン2世がテンプル騎士団の本部としてソロモン神殿の跡地と伝承される「神殿の丘」を与えたことから、「テンプル騎士団」の名称が生まれた。
テンプル騎士団の本務も言うまでもなく軍事活動であり、実際に1177年にはアイユーブ朝のサラーフッディーンが率いるイスラーム勢力を撃退するうえで大きな貢献を果たしているが、同騎士団のもう一つの顔は、一種の銀行であった。
騎士団の金融活動は当初、教会が調達するようになった十字軍遠征費の預託管理に始まり、次第に現金を所持しない聖地巡礼者に対する為替手形発行業務に拡大し、銀行の元祖的存在となった。
こうした金融活動は次第に騎士団の事実上の本務に近いものにまでなり、商取引を通じて騎士団自体が莫大な資産を蓄積し、中東や欧州に土地を保有する地主となったばかりか、フランス王室の事実上の金庫番のような存在にまでなった。
こうして、聖ヨハネとテンプルの二大騎士団は、それぞれ十字軍王国の防衛戦力であるとともに、前者は社会事業、後者は財務を分担するような形で、中東におけるフランス人騎士の植民国家という特異な十字軍王国の国力不足を補充し、その存続を担保するような存在だったと言えるであろう。
ところで、二大騎士団のその後の命運は対照的に分かれた。聖ヨハネ騎士団は十字軍王国がエルサレム陥落により事実上滅亡した後も粘り強く中東の諸都市を死守したが、最終的には中東を離れ、キプロス島からロードス島、次いでマルタ島へ移動し、マルタ騎士団として同島の実質的な統治者となった。
さらに、ナポレオンによりマルタを追われた後も、国際法上領土を保有しない「主権実体」の地位を承認されつつ、ローマのマルタ宮殿内で治外法権を認められ、今日まで存続する息の長い騎士団となっている。
他方、事実上の金融財閥組織と化していたテンプル騎士団は十字軍王国滅亡後、フランスに拠点を置き、フランス王室に対する最大の債権者という地位にあった。しかし、14世紀初頭、時のフランス国王フィリップ4世により弾圧され、壊滅する運命をたどっている。