歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第11回)

第三章 4世紀の倭

(3)畿内加耶系王権

王権の成立
 西日本各地に拡散していった加耶系渡来勢力の中でも、畿内に定住したものがやがて王権を樹立し、この畿内加耶系王権が最も有力化した。
 この王権の成立時期は、ニニギに象徴化される渡来第一世代から最低でも三世代は経過していると見て、4世紀中頃と推定される。従って、いわゆるヤマト王権の成立を3世紀代まで遡らせようとする近年の傾向とは50年から100年のへだたりを生じることになる。
 この王権の王墓群は、三輪山付近に箸墓を含む大墳墓が集中する大和[おおやまと]古墳群とその北側の時代的に後の佐紀楯列[さきたてなみ]古墳群と見られるが、その主要な特徴は加耶系古墳と同じ竪穴式石室であり、たしかに加耶的要素を伴っているのである。
 ただ、最初の王宮の地は三輪山に近い纒向遺跡よりも、南の橿原市付近と見るほうがよいと思われる。というのも、ここには軽[かる]という加羅加耶と同義)が転訛したと見られる古い地名が残されているほか、この地方を本貫とした軽氏氏神を祀った軽樹村坐[かろこむらにます]神社も所在するからである。
 この軽の一帯は、後に市(軽市)が開かれるようになり、飛鳥の経済的な中心地となったほか、一定の政治的な儀礼も執り行われる場所でもあったようである。
 そして、私見によれば、軽の地を本貫とした軽氏こそは畿内加耶系王権の王家を担った一族であり、後に示すような経緯から王位を失った後も、臣籍降下されて一貴族として少なくとも飛鳥時代初期までは生き延びた金官加耶天孫族にほかならないと推定されるのであるが、これについては第六章で改めて考察する。
 ちなみに、軽氏の氏神を祀った軽樹村坐神社は今日ではマイナーな存在となっているが、『延喜式神名帳では式内大社と格式は高く、往時がしのばれる(ただし、主祭神応神天皇にすりかわっているのであるが、その経緯・理由についても改めて考察する)。
 こうしてみると、『書紀』に初代・神武天皇が橿原に宮を構えたと記すことも、あながち作為とばかりは言い切れないことになろう。
 そうすると、纒向遺跡のほうは聖山・三輪山に関連した一種の宗教都市と見たほうがよさそうである。実際、この遺跡の建築遺構には祭事施設的な性格が指摘されている。
 ところで、この王権の王号と思しきものが考古学的に明かされている。それは、一般に百済王子が西暦369年、倭王に「献上」したものと解釈されている―後述するように、筆者は異論を持つ―石上神宮所蔵の七支刀(鉄剣)銘文に「倭王旨の為めに造った」という一句が刻まれていることである。
 この「旨」について、通説は倭王の名前と解するようであるが、「旨」は「首」にも通ずるまさに首長号とも解し得るもので、畿内加耶系王権の王号は「旨」(もしくは「首」)であったとも考えられる。
 ただ、国号として「ヤマト」を称したかは疑問で、上記銘文でも単に「倭王」となっている。5世紀代に入って南朝宋に遣使したときにも「ヤマト」を名乗った形跡はない。
 正式に国号「ヤマト」が海外史書に現れるのは、『隋書』で「邪靡堆に都す、すなわち『魏志』のいわゆる邪馬台国なるものこれなり」とあるのが、初例である。
 しかし、このように「ヤマト」国家が隋に遣使した7世紀初頭にはすでに歴史の中の存在であった邪馬台国に絡めて「ヤマト」を号したのは、ほかでもない当時の「ヤマト」朝廷自身であったのであり、邪馬台国とは別勢力であった畿内加耶系王権の自称とは考えにくいのである。

王権の構造
 畿内加耶系王権の構造は、王に権力を集中させる専制君主制的なものではなく、在地勢力の上に加耶系の王家が担がれる氏族連合体的なものであったと推定される。
 実際、『書紀』の神武紀では、神武が在地勢力と戦闘を交えながらも、相手が降伏・服属した限りでは領地を与える「論功行賞」を行う場面が見られるが、これはまさに王権が在地勢力を支持基盤としていたことを示唆している。
 このことは、朝廷の集権体制が高度に進んだ遠く7世紀後半の天武天皇の時代に至ってもなお葛城直[かずらきのあたい]、高市県主[たけちのあがたぬし]、磯城県主[しきのあがたぬし]など、在地勢力の末裔と思しき氏族の存在が確認できることからも裏づけられる。
 このように、畿内加耶系王権は少数派加耶系王族が多数派在地勢力によって神輿のように担がれただけの脆弱な構造を脱し切れなかったことがアキレス腱となった。
 この在地勢力の小首長らも王と同様にそれぞれの本貫地で競い合うように大墳墓の築造を行い、王にはそれを禁止するだけの力はなかったから、畿内は全国でも群を抜く大墳墓密集地帯となったのである。
 ただ、このような本質的に脆弱な王権を支えていたのは軍事力であった。この点、『書紀』では神武の軍事力として大伴氏の先祖・日臣命[ひのおみのみこと](後に改名されて道臣[みちのおみ])に率いられた大来目[おおくめ]軍団が活躍する。
 大来目(大久米)とは、もとは現在の岡山県久米郡出身の武装集団であり、天孫東征勢力が吉備から畿内へ再東征する際に大伴氏に率いられて合流したものと考えられる。
 ちなみに、『書紀』ではニニギの天孫降臨の後、大伴連らの祖・天忍日命[あまのおしひのみこと]と久米直[くめのあたい]らの祖・天津久米命[あまつくめのみこと]の二神が武装してニニギを護衛・先導する場面がある。
 考古学的に見ると、久米郡一帯には高句麗的特徴を伴った方墳・前方後方墳が集中的に分布することから、高句麗系渡来勢力の割拠したところと推定され、もとはこの地方の土豪的存在であろう大伴氏や久米氏も高句麗系渡来人を祖とする氏族であった可能性がある。
 いずれにせよ、大伴氏は畿内王権の軍部を担う軍事氏族として重きを成すようになり、大伴氏の指揮する来目軍団を母体とする軍隊が精鋭の近衛兵的に組織され、脆弱な王権を防衛したものと考えられる。とはいえ、しょせんそれも傭兵部隊の性格を脱し切れないものではあった。

王権の支配領域
 さて、ここまで「畿内」王権と呼んできたが、本来「畿内」と言えば今日の奈良県京都府南部、大阪府から兵庫県の一部まで含むから、「畿内王権」という言い方は必ずしも正確でない。なぜなら、発足当初の「畿内王権」の支配領域はせいぜい奈良県南・中央部と大阪府の河内地方を併せた程度のものでしかなかったと考えられるからである。
 その河内地方にしても、ニギハヤヒ派の本貫地であって、かれらは一応ニニギ派加耶系王権に臣従はしたものの、あくまでも「一応」であり、事実上この地方はニギハヤヒ派の半独立国のようなものであった。
 その後、4世紀代に領域の拡大がどこまで進んだかを見定めることは難しいが、軍事的遠征事業に不可欠な騎馬軍団の発達は、古墳からの馬具や騎馬戦用武具の出土状況から見て5世紀半ば以降であるため、4世紀頃からの全国制覇などは考え難い。
 ただ、同系の吉備王権とは前述したような共通的出土品の状況から見て、早くから交流があり、一種の連合王国体制を採っていた可能性はある。こうした関係を利用して、瀬戸内海の両沿岸部に対しては早くから一定の支配力を確保していたかもしれない。
 一方、王家ルーツである金官加耶国及びその周辺諸国(いわゆる任那)との交流は、次節で述べるように、糸島半島を征服して海への玄関口を確保した4世紀後葉以降に改めて活発化したものと思われる。ただ、それは加耶諸国を支配下に置いて統制するというようなものではない。少なくとも、いわゆる「任那日本符」の実在を証明し得る考古学的な証拠はこれまでのところ存在していない。
 従って、5世紀代に入って南朝宋に遣使したいわゆる「倭の五王」―後述するように、筆者はこのようなくくり方に異論を持つが―の一人・済が「任那加羅」まで含めて「使持節都督」(総督)を授号されたのは、宋が朝鮮半島南部地域の実情を正確に把握していなかったことの表れである。
 畿内加耶系王国と加耶諸国、とりわけ金官加耶国との交流は、支配‐服従の関係ではなく、あくまでも王家ルーツとしての尊厳をもって対等に行われたものと考えられる。