第5話 エルサレム陥落へ
ハンセン病を負いながらも、英明で気概もあったボードゥアン4世が早世すると、その後継に定められ、すでに共同国王の座にあった姉シビーユの子で甥に当たるボードゥアン5世が単独統治を開始したが、10歳に満たない少年のうえ、治世1年にして急死してしまう。
当然ながら継嗣もなく、生母シビーユと彼女の再婚相手のフランス貴族ギー・ド・リュジニャンが共同国王となる異例の王位継承が行われた。しかし、この夫婦共同国王は有能ではなかった。特に、ギー・ド・リュジニャンが問題の種であった。
元来、シビーユの夫君はイタリアのモンフェッラート侯家のグリエルモ(ボードゥアン5世の実父)であったが、グリエルモは妊娠中のシビーユを残して急死してしまう(マラリアと言われる)。その後、再婚相手探しが本格化する中、シビーユはフランスでもめ事を起こして十字軍王国に亡命してきていたギーと恋仲となり、結婚した。
ギーは対イスラーム勢力強硬派であり、ボードゥアン4世の摂政に就任すると、サラーフッディーンとの対決姿勢を強めたが、これは旧十字軍戦士の子孫である在地諸侯勢力の反対にあい、ギーを支持する新着の十字軍戦士派と在地諸侯勢力の間の亀裂が深まった。
ボードゥアン4世が甥のボードゥアン5世を共同国王に定めたのも、ギーの手腕に疑問を抱き、自身の没後にギ―が即位できないようにする策であった。実際、5世が長生していれば、4世の望みはかなったが、5世が夭折したことで事情が変わったのである。
諸侯勢力はシビーユの即位条件としてギーとの離婚を要求し、シビーユはこれに承知する交換条件として新しい夫は自ら決めることを要求した。ところが、諸侯がこれに同意すると、シビーユは改めてギーを夫に指名し戴冠させるという騙し討ち的なやり方に出た。ギーへの執着が強かったと見える。
サラーフッディーンはおそらく十字軍王国内の諜報網を通じて、こうした王国内の内紛を見据えつつ、虎視眈々とエルサレム奪回を狙っていた。1187年7月、サラーフッディーンはダルブ・アル‐ハワルナフ街道を進み、十字軍王国の属領主トリポリ伯レーモン3世の領地でもあったガリラヤ湖西岸の要衝ティベリアを奇襲して制圧、これを突破口としてエルサレムを目指した。
対する十字軍王国側ではティベリアへの進軍反攻を主張するギーとこれに反対するレーモン3世の間で対立が生じる中、ギーがティベリア反攻を強行したことが裏目となった。十字軍はティベリア進軍途中の砂漠地帯で水を失い、兵士が脱水状態となる中、泉のあるヒッティーンの丘陵に向かうが、サラーフッディーンはこれを追い、ヒッティーン丘陵の攻囲戦に持ち込んだ。
攻囲戦はサラーフッディーン軍の勝利に終わり、十字軍王国側はほぼ全軍壊滅、ギー自身やテンプル、聖ヨハネ両騎士団総長など首脳の多くが捕虜となる屈辱的な敗北であった。このヒッティーンの戦いで勢いを得たサラーフッディーンは王国主要都市を次々と落とし、10月2日には王都エルサレムを制圧した。
これにより十字軍王国は事実上滅亡したかに見えたが、エルサレム陥落を受けてイングランド王リチャード1世が指揮する第三回十字軍が急派され、サラーフッディーン軍が制圧していたパレスティナ北部の要衝アッコを奪回したことから、王国存続の道が開かれ、以後アッコが新たな首都となった。
一方、1193年にサラーフッディーンが没すると、アイユーブ朝で内訌が起き、アイユーブ朝が弱体化に向かったことも追い風となり、再編された十字軍王国は100年近く持ちこたえる。しかし、この再編十字軍王国は現在のイスラエル・レバノン中部の沿岸諸都市を支配するだけの小国であった。
ちなみに、ヒッティーンの戦いで捕虜となったギーは1188年に解放された後、アッコ奪回作戦を指揮するが、同行していた妻のシビーユ女王が二人の娘に続いて陣中で蔓延した感染症のため急死すると、シビーユの異母妹イザベルが新たな女王となった。
その後もギーは王位を放棄せず居座っていたが、1192年にリチャード1世のとりなしでキプロス王(実質はキプロス領主)に転出することで、ようやく王座を降りたのであった。ヒッティーン敗戦の戦犯でありながら、権力への執着は人一倍であったようである。