歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第15回)

第四章 伊都勢力とイヅモ

(2)伊都勢力の由来と大移動

伊都勢力の由来〈1〉
 イソタケルを紹介する『書紀』の神代編第八段別伝第四書はイソタケルについて次のような説明を与えている。すなわち―
 はじめ五十猛神が天降るときに、たくさんの樹木の種を持参してきた。しかし、韓地[からくに]には植えずにすべて持ち帰り、筑紫から始めて大八洲国[おおやしまのくに:日本列島]の中に撒き殖やして、一つ残らず青山に変えた。このため、五十猛神を名づけて有功[いさおし]の神ともいう。紀伊国に鎮座している大神がそれである。
 これは言わばイソタケルのプロフィールであるが、ここにはイソタケルを部族神とする勢力の来歴と展開の一端が示唆されているのである。
 まず、この勢力が「韓地」からの渡来集団であって、その最初の定住地が筑紫であったこと。これは要するに伊都国の由来に関わることである。従って、イソタケルを部族神とする勢力は、まさに伊都国を構成した勢力―伊都勢力―にほかならない。
 この点、前章で見た『書紀』の伊都国王・五十迹手の服属場面で、仲哀天皇が五十迹手の服属態度をほめて「伊蘇志」[いそし]と名づけたところから、時の人は五十迹手の「本土」[もとのくに]を伊蘇国と呼び、伊都というのはこれが訛ったものとある。
 この点、『筑前国風土記逸文では、同じ場面で、天皇の誰何に対して五十迹手が「高麗[こま]の国の意呂山[おろやま]に、天より降ってきた日桙[ヒボコ]の末裔、五十迹手であります」と自らの身元を明かしたとされる。
 ヒボコとは、第一章で見た神功皇后の母方の祖にして新羅王子とされたアメノヒボコのことであるから、この逸文の挿話から、アメノヒボコは伊都国王の祖でもあり、かつ伊都勢力の渡来第一世代の族長の形象化でもあったことがみてとれるのである。
 そうすると、伊都勢力の故地は先の五十迹手の名乗りに現れる「高麗の国の意呂山」を含む国ということになるが、これはいったい朝鮮半島のどこに比定されるかが問題となる。
 『風土記』が編まれた8世紀には「高麗」とは朝鮮半島全般を指していたから、特定は容易でないが、朝鮮史料『三国史記』と『三国遺事』によると、かつて新羅の西方、今日の慶尚北道清道伊西面に、伊西古国[いそごこく:『三国史記』]もしくは伊西国[いそこく:『三国遺事』]という小国(以下、原則的に伊西古国で統一する)が存在しており、ここにアメノヒボコが天降ったとされる意呂山とも音韻上通ずる烏禮山[オレサン]という山城が所在するというから、伊都勢力の故地をここに比定することができる。この伊西国ないし伊西古国は『書紀』が伝える五十迹手の「本土」の「伊蘇国」とも音韻上重なっている。
 この伊西古国は、5世紀まで斯蘆国と称した新羅とともに、元来は辰韓に属した小邦であり、言語・習俗ともに新羅と大差はなかったと考えられるから、伊西古国からの渡来第一世代の族長を象徴するアメノヒボコ倭国側で「新羅王子」と伝承されるようになったことは当たらずとも遠からずというところであろう。
 ちなみに、伊都国の由来が新羅とも共通する辰韓系であることは、『魏志』に記された伊都国の官職名「爾支」[ニキまたはニシ]からも立証できる。同書は「爾支」を伊都国筆頭官職名と認識しているが、伊都国が邪馬台国に統属していた当時の「筆頭官職」とは国王自身にほかならないから、これを王号とみなせば、新羅が1世紀から5世紀初頭まで王号としていた「尼師今」[ニシキン]とも音韻上通ずるか、少なくとも同一語源の語とみることができよう。
 ところで、15世紀に編纂された朝鮮地理書『東国輿地勝覧』によると、伊西古国は早くも1世紀代に新羅に討たれてその版図になったとあるが、『三国史記』によれば、3世紀末の297年に伊西古国が新羅の王都・金城を包囲し、新羅側は対抗できなかったところ、竹葉の耳飾りをつけた謎の軍団の応援でようやく撃退したという。そうすると、伊西古国は3世紀末にはまだ健在だったようである。
 ただ、同国は元来領土的野心の強い新羅に圧迫され、流民が出やすかったとも考えられ、その一部集団が九州北部へ移住し、伊都国を建国したということも想定できる。そもそも糸島とは、伊都+志摩の合成語であって、前半の伊都はもちろん伊都国に由来する(後半の志摩は『魏志』にも邪馬台国に属する小邦として登場する「斯馬国」か)。
 こうして、伊西古国が歴史的にも新羅とライバル関係にあったことが、渡来後の伊都国の「反新羅」の気風を強めた―もちろん、そうした政治的動機のみならず、「金銀がある」新羅の寇掠という経済的動機も手伝っていたことは想像に難くないが―と考えられるのである。
 実際、『三国史記新羅本紀は、新羅始祖王・赫居世居西干[かくきょせいきょせいかん]時代の紀元前50年という年代から最後の紀元500年に至るまで、30回以上もの倭の新羅侵攻を記録するが、紀元前という年代の信憑性はともかくとして、少なくとも伊都国が畿内王権に服属した4世紀後葉以前の侵攻は糸島半島の伊都国が主体となった軍事行動と推定されるのである。

伊都勢力の由来〈2〉
 ここで伊都国の建国年代を考えてみると、福岡県糸島市の三雲遺跡のように弥生時代中・後期の典型的な王墓遺跡を提供していることからみて、伊西古国が新羅に討たれたとされる1世紀代の渡来・建国もあり得なくはない。
 注目されるのは、『後漢書』に記録された安帝永初元年(107年)における倭国王帥升らの遣使である。この帥升は中国史料では「師升」とも表記されていることもあるが、これを王号とみれば先の「爾支」や「尼師今」とも重なってくるので、早ければ2世紀初頭頃に伊都国が後漢に遣使するだけの実力を持っていたとも考えられる。
 その半世紀前の建武中元二年(57年)には、「倭の奴国」が朝貢し、この時に皇帝から下賜された印綬と見られる有名な金印が博多北方の志賀島で発見されている。
 この「奴国」は博多付近にあったクニで、3世紀になると邪馬台国に属していたことが『魏志』で確認できるが、1世紀半ばには奴国が後漢に遣使できるほどの実力を持っていたが、その後2世紀に入ると、西側の伊都国が優勢化したと考えれば、伊都国建国は1世紀後半頃ということになろうか。
 いずれにせよ、第三章でも触れたように、2世紀末の内乱期を経て、伊都国主導で邪馬台国が結成され、伊都国がその主宰国となった。これを反映して、『三国史記新羅本紀は倭の女王卑弥乎(呼)の遣使・来聘を記している。ただ、その年号が173年となっているのは誤りで、実年代は3世紀代前半まで繰り下げる必要がある。
 しかし、「反新羅」の気風の強い伊都国主導の新羅外交はうまくいかなかったようで、新羅の高官にして王族の昔于老[せきうろう]が倭国の使臣に「倭王を塩焼奴に、王妃を賄婦にしたい」と非礼な冗談を飛ばしたことが倭王の耳に伝わり、怒った倭王(伊都国王であろう)が兵を送って干老を焼殺するという外交紛争に発展した。
 この一件には後日談があり、約20年後、倭国の大臣が来訪した時、于老の妻が王に願って大臣を接待し、泥酔したところを庭に引きずり下ろして焼殺し、旧怨に報いたという。
 ちなみに、昔于老は『書紀』の神功皇后紀の注記にも「宇留助富利智干」[うるそほりちか]なる名前で、神功皇后に降伏し、内宮家[うちつみやけ]としての朝貢を永久に誓った新羅王として登場する。また別伝として、新羅王を惨殺して海岸に埋めた後、使者として残った男を新羅王の妻が誘惑して王の屍の場所を明かさせたうえ、国人と謀って男を殺したのに対して、怒った天皇が大軍を送って新羅を滅ぼそうとしたので、新羅の国人は大いに怖れ、皆で謀って王の妻を殺して謝罪したという、先の于老の逸話を変形させた話も乗せている。これらは、畿内王権が伊都国を服属させた後、伊都国の故事として伝わったものを都合よく加工して「三韓征伐」の根拠に転用した作為と考えられる。
 以上の単于老絡みの紛争記事は、『三国史記』では230年代から250年代にかけてのこととされているから、これは伊都国が主宰した邪馬台国新羅の間の外交関係に関わることと推定できる。この後、3世紀後葉の邪馬台国解体と伊都国の独立から畿内王権への服属に至る流れは前章で見たとおりである。
 いずれにせよ、畿内中心史観の中では弥生時代の一小国として過小評価されている伊都国は辰韓系伊西古国からの渡来集団が相当古い時期に建てた強国であり、やがてイソタケル信仰を共有する水軍勢力を生み出す母体ともなった由緒あるクニであった。
 事実、イソタケルを祀る神社は糸島市の白木神社や、福岡市の五十猛神社をはじめ、糸島半島付近から九州北部沿岸地域に数多く分布しており、一大率が置かれ、「諸国これを畏怖し」た(『魏志』)伊都国の影響力をしのばせている。