Ⅰ 古代の女性君主たち
三 飛鳥時代の二人の女性オオキミ
飛鳥時代は通常、6世紀末から奈良時代が開始される8世紀初頭までを指す。この時代は蘇我氏の専横を排したいわゆる大化の改新を境に前期と後期に分けることもできるが、ここでは天皇称号が確立され、本格的な天皇王朝の樹立につながった壬申の乱を境に前期と後期に分けて、その前期に現れた二人の女性オオキミを見る。
『日本書紀』ではこの二人をそれぞれ推古天皇、皇極天皇=斉明天皇(同一人の重祚)と「天皇」として叙述するが、古墳時代末期と重なるこの時代にはまだ天皇称号は使われておらず、従前の大和朝廷の君号であるオオキミが使われていたと考えられる。従って、天皇称号は追贈であるが、ここでは便宜上、天皇呼称で表記する。
1:推古天皇(554年‐628年)
(ア)登位の経緯
男帝の崇峻天皇が政界最高実力者の蘇我馬子と対立し、馬子によって暗殺された後、母方から馬子の姪に当たる額田部皇女が女帝として即位した。それ以前にも、額田部皇女は馬子と組んで、皇位を望んでいた異母弟・穴穂部皇子と穴穂部の親友で宣化天皇の皇子とされる宅部[やかべ]皇子の暗殺に関与するなど、叔父・馬子とは政治的同盟関係にあった。
(イ)系譜
大和王権の領域拡大に寄与した欽明天皇の娘で、元は異母兄・敏達天皇の皇后であった。母の蘇我堅塩媛[きたしひめ]は蘇我馬子の姉に当たる。
(ウ)治績
『日本書紀』によれば、甥に当たる厩戸皇子(聖徳太子)を摂政として実権を委ねたとされるが、『日本書紀』の記述を見る限り、聖徳太子の事績には誇張があり、実際には天皇自身が政界実力者の馬子と共に政務に当たっている。中でも、日本初の正式な朝庭である小墾田宮[おわりだのみや]を建設し、冠位十二階のような朝廷官制を整備したことは中心的な事績である。宗教政策としては、仏教の隆盛を追求した。また、在位中に遣隋使を五度派遣し、大陸冊封外交を活性化した。
(エ)後世への影響
皇后(オオキミ正妃)経験者が女性天皇となる先例を作った。政策面では、遣隋使を通じて大陸から摂取した先進制度を採り入れ、中央集権国家の礎を築いた。他方で、蘇我氏専横を許し、半世紀以上に及ぶ蘇我氏による政治壟断の素地をも作り出した負の遺産もある。また、即位前とはいえ、政治的暗殺に関与したことも、蘇我氏専横時代に横行した謀略と政治暴力を助長した可能性がある。
※備考
『日本書紀』に記録されず、中国側史書『隋書』にのみ記録された西暦600年の第一回遣隋使で、倭国側は倭王の姓を阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、王の妻は雞彌と称し、後宮に女六、七百人があると報告したとされる。この説明による限り、この時の倭王は明らかに男性を示しているため、推古の在位と矛盾している。これをいかに解釈するかについて定説はないが、実際のところ、崇峻天皇を暗殺・排除した蘇我馬子自身が王=阿輩雞彌[オホキミ]の地位にあり、古代には見られた叔姪婚[しゅくてつこん]により、姪の額田部皇女が馬子妃かつ副王=雞彌[キミ]のような地位にあった可能性もあり得なくはない。626年に馬子が死去するまでの推古朝期は、政治的同盟関係にあった両人が聖徳太子の輔弼を受けた共同統治体制であったかもしれない。